僕は京都で育ったので、小さい頃から日本庭園には親しみがある。特に好きなのは一乗寺の詩仙堂(上写真)だ、四季の変化を考えてデザインされており、いつ見ても気持ちがいい。日本庭園は四季との関わりの中に生じる変化にこそ真髄がある。
●欧米のガーデンデザイン
ところで、欧米のガーデンデザインの原型はフランス庭園にある。まっすぐに通った道を庭園の幾何学模様を支える軸として、モニュメントや噴水を庭の中心に据えた、シンメトリーなデザインが基本だ。神や王を中心とした秩序だった世界観・宇宙観の縮図としてつくられている。またパルテール(花壇)、水面や並木道などの要素が遠近法に基づいて区画されるなど、実際に苑路を歩くことで別の視線で庭園を楽しめるように工夫がされている。西洋の庭はテーマパークのように人が集まる広場としての役割も果たしているということだ。
●日本庭園
これに対して日本庭園は、精神世界への導入装置としてつくられている。たとえば禅寺に多くみられる「枯山水」。禅宗の僧は山の中で修行するのが理想だそうだが、やむなく室内で修行するとき、身近に自然を模した庭を必要とした。枯山水とは、石と砂と苔でつくられた“大自然のミニチュア”。思索を深めるためのイメージ装置だから、自然を単に写すのではなく、竜安寺の石庭のように大胆に抽象化されることもあった。
茶道の発達とともに生まれた「路地」も精神世界への導入装置として機能している。門から茶室に至るまでの狭い空間の中に、奥深い山のような自然が再現されている。敷石や飛び石の上を歩くのは、いわば山道のシミュレーション体験。これは茶の湯が、俗世間と隔絶した別世界の芸術であると意識させるための演出なのだ。そして路地のスケールをそのまま巨大化させたのが、日本庭園の最高傑作、桂離宮庭園である。
このように日本庭園は座敷から眺める一枚の風景画であり、決して中に入って遊んだり、運動したりするための場所ではない。しかし最近の建売住宅を見ていると、庭のある家は少数派だ。そもそも限られたスペースを効率よく活用する合理主義思想と日本庭園は相性が悪い。だからこそ今どきの日本では「見るための庭」をもつことが最高の贅沢であるともいえてくる。
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