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コラム

神が潜むデザイン

第59回:1本の蝋燭/吉添裕人

「神は細部に宿る」と言うが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた製品、作品、建築などを紹介していただくとともに、デザイナー自身のこだわりを語っていただきます。

イラスト[プロフィール]
吉添裕人(Hiroto Yoshizoe):武蔵野美術大学卒業。乃村工藝社を経て独立後、商業施設開発などのクライアントワークに従事する。その経験は個人の制作活動に影響を与え、人間と環境のインタラクティブな関係を重視した独自の制作プロセスを形成。現象、素材などプリミティブな要素からインスピレーションを受けるとともに、自身のアイデンティティと密接につながりを持つ日本の文化背景や宗教観と通ずる「変化」「時間」といった不完全で流動性のあるテーマを探求している。2017年「PIXEL」、2021年「hymn」をはじめとする発表作品で多くの受賞歴があり、世界各国で作品を発表。空間領域から拡がる幅広い分野での活動を続けている。京都芸術大学非常勤講師。
https://www.hirotoyoshizoe.com/




突拍子もない書き出しだが、神の存在について気になっていた今日この頃である。そんなタイミングで「神が潜むデザイン」のリレーコラムをファッションデザイナーの小高さんから受け取ったのも面白い偶然だ。

捉え方のベクトルが本コラムの趣旨と異なることもあるかもしれないが、覚え書きのようなものをどこかの引き出しにしまっておくのには大変に良い機会をいただいた(私は自分自身が考えていたことをすぐに忘れてしまう性格なのである)。ざっくばらんに書いてみようと思う。

●1本の蝋燭

もう10年ほど前の話になる。フィレンツェの街が一望できる丘の上、そこに立つ教会に足を運んだ。San Miniato al Monteという教会だ。歴史ある素晴らしい宗教建築であることは言うまでもないが、見学していると、大聖堂の真下に半地下のような空間があった。窓はあるが日中でも薄暗く、細い柱とアーチが続く空間、奥には棺のようなものがあったと思うが、詳細の記憶は曖昧だ。

ただ、確かに覚えていることもある。その半地下には燭台があり、1本だけ蝋燭が灯っていた。明るくも暗くもない宙に、光が浮かんでいた。周囲の空間が霞みがかって見えるほど、ふわふわとした揺らぐ光だけが網膜に映り、脳裏に焼き付いた。見つめている間、そこに「神」を感じることができた。
美化されすぎてしまった記憶のようにも思えてくるが、そこにあるすべての空気と灯る火が作り出したゾクっとする何かに圧倒されてしまったのである。

そんな1本の蝋燭が持つ奇妙な体験、と言っていいのだろうか、同じ体験は過去にもあった。絵画と対した時だ。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」や「ふたつの炎のあるマグダラのマリア」、ゲルハルト・リヒターの「骸骨と蝋燭」など、蝋燭がモチーフとして描かれた絵画が無性に好きだ。特に髙島野十郎の「蝋燭」を例に上げたい。生涯を通じて蝋燭を描き続けたことは有名な話だが、蝋燭から発せられる何かに魅力を感じ、描き続けたことに、私も深く共感を覚えるのだ。絵画であるにも関わらず、野十郎の描く蝋燭もまた、フィレンツェで見た蝋燭のように、煌々と力強く燃え続けている。

どの絵画も具象表現であるにも関わらず、抽象性を帯びて見えるのは不思議な感覚だ。現象そのものを描写していることに起因しているのだろうか。また、画面から宗教性を感じることもとても興味深い。蝋燭=宗教儀式に使用する、という経験の刷り込みがあることも否定はできないが、画面上に蝋燭を描くための明暗のコントロール、光を描くために闇を描き、闇を描くために光を描く。そんな当たり前の美術/デザイン手法の中に、私はどうしても人間の知覚の根源性と、どうしようもなく変えることのできない宇宙の真理のようなものを感じてしまう。

大袈裟かもしれないが、「神」はこのような場所に宿っているのではないかと私は錯覚するのだ。

●神の存在

神の存在について考えるようになったきっかけは、友人から唐突に言われたアドバイスがきっかけだった。「つい祈ってしまうようなものを作れたとしたら、ものづくりの意味があるのではないか」。

そんな言葉をかけてくれた。当時の私の気持ちをうまく表現することはできないが、そういうことがしたいのかもしれない、と妙に納得したことを覚えている。人が畏怖するような、不可侵なものづくりをしたい訳ではない。私がそんなことができる人間だとも思っていない。自身の作品に神が宿っているなどと、崇高じみたことを言うつもりも毛頭ない。

なんだろうか。美しい山々を見た時におもわず両手を合わせてしまったり、流れ星を目で追ってしまったり、月をぼうと眺めたり、太陽が眩しくて目を細めてしまうような、そんな人間の反射的な感覚に近い気がする。その光景を目の当たりにした時の個人的な情感そのものが、むしろ普遍的摂理につながっているのではないかとも思う。

自身の好きなこと、気持ちの良いことが、私の中で完結していればそれでいいのだと思えるようになった。ただ、その個人的な思想が、タンポポの綿毛のように他者に伝搬していくような感覚が面白いし、ともにそれを育てていける仲間が1人でもできることに喜びを覚えるのも事実だ。

それらの事象を通じて自分自身の心と他人の心を通じ合わせたいと思う。ものからフワッと香り立ちながら生まれる何かを信じている。宗教論はめっぽう苦手だが、本コラムのアーカイブにも記している方がいるように、日本の神道は万物に神が宿るという考えだ。

神は「細部に宿る」が、「至る所にも宿る」、そして炎のような、空気のような「かたちのない何か、移り変わる時間そのものにも宿る」という感覚が私の制作において、とても大切なファクターのように思える。思い込みだとしても、私のよりどころはそのような掴みどころのないところにある。

だいぶ好きに書き留めてしまい、本リレーコラムの趣旨と外れてしまってはいないだろうか心配だ。最後に「hymn」という私の作品がある。たくさんの方々の協力でかたちになった光の作品だ。フィレンツェで見たあの光の粒からインスピレーションを得た。畏れ多くて、あの光を表現したとは言い難く、自身の作品に神が宿っているなどとも思えないが、願いは込めたつもりだ。お時間があれば動画などでぜひご高覧いただきたい。


(2024年2月13日更新)



▲「hymn」。Ph:Hiroshi Iwasaki (クリックで拡大)

▲「hymn」。Ph:Rie Amano (クリックで拡大)


▲「hymn」。Ph:Rie Amano (クリックで拡大)





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