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コラム

神が潜むデザイン

第57回:アーチ橋からゴミ置き場まで/本橋 仁

「神は細部に宿る」と言うが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた製品、作品、建築などを紹介していただくとともに、デザイナー自身のこだわりを語っていただきます。

イラスト [プロフィール]
本橋 仁(もとはし じん):建築史家、金沢21世紀美術館レジストラー、博士(工学)。1986年東京生まれ。メグロ建築研究所取締役、早稲田大学建築学科助手、京都国立近代美術館特定研究員、文化庁在外芸術家研修員としてCanadian Centre for Architecture (CCA)に滞在を経て、現職。2024年より「建築討論」編集長。建築作品に「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」(福島加津也+冨永祥子建築設計事務所と協働、2017年改修)、編著書に『クリティカル・ワード 現代建築』(フィルムアート、2022年)、『ホルツ・バウ 近代初期ドイツ木造建築』(TOTO出版、2022年)など。
https://archive-tektur.net/



軒先で植木鉢を置く台にもなれば、汽車も支える巨大なアーチ橋にもなる。重い荷物をヨッコイショと背負っても微動だにしない力持ち。多くの仲間が寄り集まれば有機的な曲線も生み出せるし、それぞれの身体の色の違いを利用して、装飾的な文様を表現したりもする。あの子も、この子も同じ体格で、まぁだいたい210mm×100mm×60mm。

四角四面な性格で、真っ赤な顔した煉瓦が、私にとっては神々しい。単なる直方体の塊といってしまえば、それまでだが、そのシンプルな形ゆえに組み合わせ次第で無限大の可能性を持っている。実際、わたしたちの生活を、むちゃくちゃ支えているのが煉瓦という存在だ。そんな煉瓦に魅了されたのは、埼玉県本庄市という町に残る煉瓦倉庫を、改修する仕事に携わってからだった。

絹産業と煉瓦

日本におけるレンガの歴史は、ご想像のとおり短くて、おおむね明治に入ってからだ。近世以前にも、実は少しだけ日本でも使われていたが、本格的にレンガが使われ出すのは、やっぱり近代以後のこと。特に、殖産興業政策のなかで、海外から輸入してきた製造機械を守るため、堅牢なハコが必要とされた。そこから煉瓦建築はスタートする。オシャレというよりは、大事なものを守るために煉瓦建築は生まれた。

たとえば富岡製糸場も、日本を代表する明治期の煉瓦建築(実際には木骨煉瓦造なので、わりと木造に近いんだけど)として広く知られているところだが、やっぱり中の機械が大事だから煉瓦だったんだと考えたほうがいいだろう。

わたしが関わった旧本庄商業銀行煉瓦倉庫も、やはり中のモノが重要だった。本庄商業銀行は、繭を担保として預かり、その代わりに製糸工場の運用に必要な資金を貸し出した。その担保とした繭を保管するのがこの煉瓦倉庫の役割で、そのために調湿機能を備え持った開口部も持つなど、とても機能性の高い煉瓦倉庫であった。防火にも強く、防犯性にも優れた煉瓦建築はこうして中のものを守るために使われた。

1つから、数万個まで

煉瓦の研究をはじめてみると、当時の煉瓦積み職人たちの技術に圧倒されていった。煉瓦を積むのは、一見単純作業とも思われるかもしれないが実は結構複雑。特に開口部あたりは難しく、煉瓦をどう処理しながら積むかが問われる。ただ、後世に研究者として見るときには、果たしてどう積まれているんだろう…と考えるのは、まるでレゴブロックで遊ぶようで楽しい。積み方にも、当時の技術や思想が反映される面もあり、時には矛盾した積み方も見つけられると、それを積んだ人たちの葛藤が見えるようで、実に萌える。

一緒に研究していた学生と、あーじゃない、こーじゃないと夜通し考えていたのが懐かしい。結局のところ、その積み方を理解するために、小さいミニ煉瓦を北海道江別市から取り寄せて、実際に積んでみて試してみたりなどした。レゴみたいでやっぱり面白い…。

「隠れンガ」を見つける「煉瓦目」

そうこうして、煉瓦ばかりに気持ちが集中すると、ふと目に入ってくる景色のなかに、じつは煉瓦が隠れていることに気がつく。ここでは、とりあえず「隠れンガ」とでも名付けておこうか。別にあえて隠れてた訳でもないだろうが、それだけ縁の下の力持ちは目立たない(私も人生、そうありたい)。植木鉢の下に敷かれた煉瓦を見つけることもあれば、住宅の基礎に使われていたりする。また都内でも、電車のプラットフォームに煉瓦が積まれているのを見つけることもある。そこかしこ、町の足元に煉瓦が眠っていることに気が付かされる。

京都に住んでいたとき、京都岡崎周辺の煉瓦を見て歩くというツアーを何度も実施した。琵琶湖疏水を引くために、御陵駅近くに煉瓦工場が建設され、トータルで1,300万個近い煉瓦が製造されたという。琵琶湖疏水の構築物には、南禅寺の水路閣を始めとして、たくさんの煉瓦構造物がある。それだけでなく、小さい構造物まで煉瓦がたくさん。ツアー参加者と一緒に煉瓦を見て歩くと、自分でも気がついてなかった煉瓦が参加者によって多く発見される。こうなってくると、もう次々に煉瓦が見つかってくるのだが、そんなもう煉瓦が無視できない状態を、煉瓦目になっちゃったね、なんて呼んでいた。

「溢れンガ」な都市 群馬、埼玉、そして京都

でも、隠れンガは全国どこでも見つけられるかといったら、そうでもない。例えば、いま住んでいる金沢では、そう簡単に煉瓦は見つからない。富岡製糸場のある群馬や、養蚕で栄えた埼玉、そして琵琶湖疏水のある京都。こうした都市では、溢れんほど煉瓦を町の中で見つけやすい。

こうした都市に共通するのは、そこに巨大な煉瓦造構造物があることである。群馬県にある、旧碓氷峠鉄道施設をご存知だろうか。軽井沢に抜ける交通の難所を、トンネルや橋を煉瓦でつくり、碓氷線という貨物路線を明治中頃に建設し、絹産業の発展を支えた。この工事のために大量の煉瓦を必要となり、渋沢栄一が深谷に設立した日本煉瓦製造株式会社は増産体制を確立した。

ただ困ってしまうのは、この土木工事が終わってしまうときである。工事が終われば煉瓦も不必要になる。でも、工場はある。こうした状況に接したとき、民間にも煉瓦の販路を求めていくことになる。旧本庄商業銀行煉瓦倉庫も、この碓氷峠の工事が終わった頃、日本煉瓦製造製の煉瓦を使っていたことを考えると、やはりこうした状況のもと、できたと理解できそうであった。京都も、きっと同じだろう。琵琶湖疏水の大工事が終わればやっぱり煉瓦の製造はできても、不必要な煉瓦も出てきてしまう。そこで民間にも使う機会が増えてくるわけだ。

こうして、古都京都の町も煉瓦で「溢れンガ」。モルタルで塗り込められた門柱の一部が剥離して、チラリと見えた構造が、実は煉瓦だった、なんてこともあった。そして今でも、煉瓦を街なかで、ふつうに使われているのを見かけることも多い。あれ? ゴミ捨て場のカラスよけネットにも煉瓦が。でもこの煉瓦が、もし明治時代に使われていた煉瓦だったらな。アーチ橋からゴミ置き場まで。こんな究極でシンプルな形態、なかなかデザインできるものではない。



(2023年12月22日更新)



▲旧本庄商業銀行煉瓦倉庫を実測する。(クリックで拡大)


▲中山道からみた旧本庄商業銀行煉瓦倉庫。(クリックで拡大)


▲福島加津也+冨永祥子建築設計事務所との協働で行った改修工事では、煉瓦造の躯体そのままに、鉄骨造のフレームをインストールするという特殊な方法を採用した。(クリックで拡大)


▲鉄骨造を挿入した2階。(クリックで拡大)


▲煉瓦を1枚、1枚積んでいく。結構、煉瓦の積み方は複雑。(クリックで拡大)


▲京都岡崎で、岸和田煉瓦の発見にどよめく参加者。すでにみんな煉瓦目。(クリックで拡大)



▲碓氷第三橋梁。これでおよそ200万個の煉瓦が使われていると言われている。(クリックで拡大)


▲京都の市街地でみつけた門柱。煉瓦が隠れていた。(クリックで拡大)


▲新橋駅3番線のホームを支えているのも、実は煉瓦。こんな例は挙げればキリがない。(クリックで拡大)


▲京都のゴミ捨て場にて。もはや日常の風景の中に、煉瓦はいる。写真提供:佐藤守弘氏。(クリックで拡大)





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