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コラム

神が潜むデザイン

第51回:他者のひとりとしての人間/馬場兼伸

「神は細部に宿る」と言うが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた製品、作品、建築などを紹介していただくとともに、デザイナー自身のこだわりを語っていただきます。

イラスト [プロフィール]
馬場兼伸(ばば かねのぶ):1976年東京都生まれ。2002年日本大学大学院修了。メジロスタジオ共同主宰(~2013年)。2014年~B2Aarchitects主宰。2022年~東京工業大学大学院博士後期課程。東京都市大学、明治大学、東洋大学、日本大学非常勤講師。2011年SDレビュー朝倉賞、2011年2018年日本建築学会作品選奨、2015年WADA賞、2016年グッドデザイン賞、2017年JIA新人賞受賞。主な作品に3331ArtsChiyoda、東松山農産物直売所、本町の部屋、愛菜館の転換、LinkMURAYAMAなど。
https://b2a.jp/



●怪物から自然科学の時代

幼少の頃、教会を大量に巡った記憶がある。どこだか分からない田舎街や、時には荒涼とした丘の上などに連れ回され、その各所で数時間ひたすら待たされるという体験の繰り返しは苦行で、退屈が限界に達してわめきだしたからだろう、そのうちサマースクールや知人宅に送り込まれたような気がする。

今から思えば母親の研究旅行の大変足手まといな相棒だったわけだが、多分ほとんどがロマネスク教会で、熱く乾燥した空気の中に佇む石の山のような外観や冷たく少し湿った内部の空気、わずかな光の中こちらを見下ろす怪物的な姿の人や生き物の形に触れたことは断片的かつ微かだが覚えている。

尾形希和子「教会の怪物たち」によれば、ロマネスクの恐ろしく、コミカルで猥雑な怪物たちはシンボルとしての力が強く聖性を宿していたが、ゴシックではリアリズムに寄ってグロテスクとなり、それを失っていったとのこと。人間や動物の異形である怪物が超越的で聖なるものであった時代の空気に触れ、幼い自分はどんなことを感じたのだろうか。まったく思い出せないがこれはなんらかの原体験だったと思われる。

その後に訪れる近世~近代は自然科学の時代。デカルトの動物=機械説が根拠のひとつとなり、自然を制作し動力や目的を与えるもの(=神)と機械を制作し動力や目的を与えるもの(=人間)が重ね合わされて、人間は自然物を機械として把握し、その利用や制作を正当化したという。バロック絵画の人間礼賛やルドゥーの描いた機械的合理に基づく建築の姿などを思い起こすと、その認識は揺るぎなく輝いていて、そこに聖なるものを見ただろうことが想像できる。

●機械と人間

しかし世界大戦を経て現代に入ると、芸術家がそこに疑義を提示する。

キュビズムは眼に直接入ってくる視覚情報から離れ、人が感覚を超えて把握し認識している対象のリアルな姿を表現しようとした。重要なのは全体をひとつにまとめる特徴的な「形」ではなく、細部のテクスチャー、触覚的直接性。感覚器官が感受している情報と対象の認識はまったく別の次元の事柄だと考えた(岡崎乾二郎『抽象の力』より)。 

これは人間や物質の一方的で単純な捉え方への異議申し立てであり、彼らは人や物がそれぞれに持つこうした世界を、侵されることのない聖域として表現しようとしたのかもしれない。

異形のロマネスクからリアリズムの中世、人間と機械の近代、そしてそれを疑う現代。大変雑駁だがこのように整理してみると、人間が自らの存在と世界のありようを自問し(都合よく解釈し)凝縮して表現することを試みてきた系譜が見えてくるような気がする。

では現在の私たちは、自己存在と世界のありようについて一体どんな認識をもてばよいのだろう。久保明教『機械カニバリズム』によれば、現在の機械は人間に制御される対象ではなく、機械と人間の関係は、それぞれに異なる世界を生きるもの同士の関わりとして捉え直されるそうだ。そして、俯瞰できる人間の存在を前提とせずに行う複数の文化の比較を「人類なきあとの人類学」と呼び、「それはこの世界に存在するものについて異なる見解を持つ存在者同士の相互作用が、統一的な基準がないままに把握され変容していくプロセスに関わる」と書いていて、なかなか難しいけれど、なんとなくこの態度や表現には腑に落ちるものを感じている。

●不思議な賑わいを帯びた空間

最近の経験に引き寄せれば、4年ほど関わっている山形県村山市の公共施設「LinkMURAYAMA」のことが思い浮かぶ。人口減少を乗り越えて自治体として持続するための方法を模索し、その起点となる場所を、創立120年を超える元県立高校の敷地と建物群を利用して作るというものだ。

機械のような学校建築に手を入れて新たな営みを模索するのはまさに相互作用だし、はっきりした用途名やジャストフィットする事例もなく、入居を考えている方々には個々に職能や野心があり、長年使い倒されてきた既存建物には記述できない不明点が無数にあるのだから、俯瞰的に計画などできない。人も出来事も少なくなっている中に賑わいを表現したいのだからあらゆる物事を極力捨てずに同居させようとしているし、自分たちも入居していまだにプロセスに関わっているので、これは現在性がてんこ盛り状態なのではないかと思う。

オープンして1年ほど経って全テナントに入居者が入り、今ここでは19の民間事業と8つの公共サービスが動いている。建物中央に設けたリビングという大きなワンルームでは、人だけではなく新旧さまざまな時間を抱えた物、自律性を帯びたシステム、開口部から入ってくる光や風、物の表面で進行する劣化という自然現象など、それ以外にもたくさんの主体が静かにそれぞれに息づいていることがよく感じられて、人が少なくても不思議な賑わいを帯びている。

もしこれが先人たちのように、現在の自らの存在と世界のありようを自問し凝縮して表現する試みとなっていれば、どこかに聖なるものが現れているのだろうか。それは後の時代の人が判断することなのかもしれない。



(2023年6月2日更新)








▲ロマネスク様式の「CHURCH OF SAINT-LOUP-DE-NAUD」。(クリックで拡大)

▲ロマネスク様式の「CHURCH OF SAINT-LOUP-DE-NAUD」。(クリックで拡大)




▲クロード・ニコラ・ルドゥーによる「 河川監視人の家」(『ルドゥーからル・コルビュジエまで』P65より引用。(クリックで拡大)







ピカソの「ラム酒のある静物」(『抽象の力』P13より引用)。(クリックで拡大)




▲「LinkMURAYAMA」リビング。(クリックで拡大)


▲「LinkMURAYAMA」シェアキッチン。(クリックで拡大)


▲「LinkMURAYAMA」吹抜け。(クリックで拡大)


▲「LinkMURAYAMA」廊下。(クリックで拡大)



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