●尾道に潜む
今年に入ってパンデミックも落ち着きはじめ、尾道まで出かける機会があった。
福山で新幹線から山陽本線に乗り換え、地形に沿ってカーブを描きつつ尾道に入ると気持ちが一気に上がる。線路を挟んで一方の傾斜地に張り付くような集落を持ち、もう一方は海とその対岸である島々を眺める。それらの間の限られた平地には所狭しと建築が建ち並ぶ。そこには空き家も多く含まれるにも関わらず、美しくそして神々しくすら見えた。
古くから人が集まる場所とは人間にとって可能性のある土地であったということだろう。平地であった、水源があった、日当たりが良かった、地盤が良かった、交通の便が良かったなど、もとより場としてのポテンシャルがあったはずだ。尾道で言えば、水陸両方からのアクセスが良いため平安時代より交易の拠点となり得て、戦国時代にはその傾斜地や島々によって囲まれた地形は防御もしやすかったはずである。そこにさまざまな理由から居合わせた人たちがさまざまな目的で住み始め、集落が形成される。
ある人が意図を持って作ったものに、他の人がまた別の意図を持って手を入れ、徐々に最初の意図は完全に覆い隠されたまったく別の姿になっていく。誰かのマスタープランによって作られた街ではなく、バーナード・ルドルフスキー「建築家なしの建築」に出てくるような集落で、場と人との偶然と必然のせめぎ合いが個人の能力や欲望を超えた姿をみるとき、神が宿っているとしか思えない時がある。そしてそれはたいて絶対的な力を持つ唯一神ではなく、何かもっと雑多で人間臭い八百万の神といった類のものを感じさせる。
●自分の一手も仲間に
私たちの事務所は東京の千駄木にある。森まゆみさんら先達住民が谷中、根津、千駄木をまとめて谷根千と呼ぶようになって久しいが、私たちはこの界隈を主戦場としている。この一帯はもともと寛永寺のある上野台地と、現在は東京大学となったかつての大名屋敷に挟まれたいわゆる下町である。関東大震災や戦争の災禍をくぐり抜けて残った地域のため、そんな昔の趣を東京にあってかろうじて残している。
そんな中に存在する谷中銀座商店街中ほどの、築約60年の建築の改修に現在取り組んでいる。もとは店舗兼住宅として使われていた建物を新しい住人のためにコンバージョンする予定だ。連棟式ではないものの両隣とに隙間はなく、個の建築として把握するには難しさもあり、似たような状況の周辺建築とまとめて谷中商店街という名のもとに1つの場となっている。
このような古物件の改修時には経験のある大工さんの「お互いに支え合ってるから大丈夫」といったニュアンスの言葉をよく耳にする。勘を頼りに、と言ってしまえば多少乱暴にも聞こえるが、構造や法規に日々悩まされる身には何とも頼もしく、それこそ神を信じるような気持ちにもなる。
実際にそのような多くの人の手や声によって改修が重ねられてきたことを、壁や天井を剥がしてみると実感できる。このコラム内でも紹介がある塩崎太伸さんらアトリエコによる「いつかのだれかのかたち」との呼び方もここでは非常にしっくりくるし、やはりクセのある八百万の神が住みついている気がしてならない。
この谷根千界隈は街歩きの場としても人気である。ここに来る人たちは一般的には特定の建築を見に来るのではなく、界隈の八百万の神に魅せられて来るのであろう。作り手としては、技術さえあれば誰にでもできる建築には興味は沸かないし、個人的なものから生まれる建築こそが面白いと思っているが、それでも私たちのそれぞれの一手が結果として八百万の神々の仲間になっていくと考えるのは、なんだかとても心地よく愉快なものなのである。
(2023年5月2日更新)
|
|
▲尾道の街並み。手前本州側から海を挟んで向島を眺める。(クリックで拡大)
▲尾道本州側の傾斜地には建物が所狭しと立ち並び、その隙間を縫うように走る路地。映画「転校生」の頃(1982年)からすると建築は建て替わっているようだが街並みのスケールは変わらないように見える。(クリックで拡大)
▲東西1kmに渡る尾道商店街。アーケード側に建築の「顔」がずらっと並ぶ。昭和、平成、令和それぞれのデザインの流行がそれら顔のメイクアップとして見て取れる。(クリックで拡大)
▲千駄木の路地。新築に伴うセットバックで街並みが変わりつつある。(クリックで拡大)
▲谷中銀座商店街での店舗改修設計。壁を剥がし補強をし、新旧の材料を互いに頼りにして組み建てている。(クリックで拡大)
▲現在進行中のプロジェクト。仕上げ材料や工法を見るとその施工時期がおよそ理解できる。(クリックで拡大)
|