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コラム

神が潜むデザイン

第36回:つくり手とつかい手の共鳴により美は生まれるか/萬玉直子

「神は細部に宿る」と言うが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた製品、作品、建築などを紹介していただくとともに、デザイナー自身のこだわりを語っていただきます。

イラスト
[プロフィール]
萬玉直子(まんぎょくなおこ):1985年大阪府生まれ。2007年武庫川女子大学生活環境学科卒業。2010年神奈川大学大学院修了。2010年オンデザイン所属。2016年オンデザインにてチーフ就任。2019年個人活動としてB-side studioを共同設立。2020年明治大学兼任講師。2021年東北大学非常勤講師。主な作品は、「大きなすきまのある生活」「隠岐国学 習センター」「TOKYO MIDORI LABO.(2020年グッドデザイン賞ベスト100受賞)」「まちのような国際学生寮(2020年グッドデザイン賞ベスト100受賞/日本空間デザイン賞2020住空間部門金賞受賞)」など。



このコラムのリレーバトンを受け取り、その「神が潜むデザイン」という緊張感あふれるテーマゆえ、「さて、何を書こうか…」としばらく考え込んでしまった。「神」を感じたデザインと言われてもちょっとピンとこない…などと考えている時、思い出した建築がある。

京都の五条にある「河井寛次郎記念館」という小さなミュージアムだ。それは、私にとって初めてリアリティを伴った感動に包まれた建築だった。

●陶芸家、河井寛次郎の自宅兼アトリエ


建築学生時代を関西で過ごしていた私は、建築史で学ぶ社寺仏閣や近代・現代建築を、休日のたびに友人と見て回っていた。もちろんいずれの建築から学ぶこともあったのだろうが、それらは、これから自分自身がつくっていく建築としてはどこか遠い存在で実感が持てずにいた。そんな時、出会ったのが「河井寛次郎記念館」である。たしか大学3年だっただろうか。

河井寛次郎記念館は京都の長屋住宅がひしめく中に、ひっそりとあり、陶芸家である寛次郎の自宅兼アトリエとして昭和初期に建てられた。寛次郎が設計をし、お兄さんを棟梁にした大工たちの手によってつくられたそうだ。

玄関をくぐると京長屋らしく土間が奥へと続く。少し暗い土間を抜けて居間につくと、驚くほど光に満ち溢れた空間が広がっているのである。さらにその先には大きな中庭をぐるりと囲うように回廊や茶室があり、奥の登窯へと続いていく。回遊性のあるプランは体験的にとても楽しい。再び居間に戻ってくると、囲炉裏の上の吹抜けを介して明るい2階があっけらかんとある。軸組で構成された柱と柱の間の所作により、とても豊かな奥行きやつながりをもたらしている。

そして、空間のなかには、寛次郎が当時使っていた家具や道具、たくさんの作品が並んでいる。並んでいるというよりも、そこがそのモノたちの居場所ですというように置かれている、という表現の方が正しいかもしれない。中庭を見下ろす場所にある机と椅子は、ひとりで居るにはとても心地よい。

一方で囲炉裏のまわりにはたくさんの椅子がごろごろと置かれており、ここで多くの来客との会話が生まれたのだろうと想像できる。“用の美”を求めた寛次郎の作品も、それぞれの部屋の柱や建具の位置関係と絶妙にさりげなく置かれている。吹き抜けに吊された滑車は、建設時に棟上げのためにつけられるものを寛次郎がそのまま残置させて、自身の作品を上下階運ぶときに使っていたのだそうだ。そんな豆知識も寛次郎のお孫さんが教えてくれる。気ままにいろんな発見を重ねていくと平気で3時間ほど時が経っていたのだから驚きだ。

私が一番心を動かされた理由は、この建築には何よりも“人の営み”が心地よく立ち現われている点にある。そして、それが時間を伴った美しさがある。建築には、必ず“つかい手”がいる。そして我々は“つくり手”である。この2つの意思が響きあったときに生まれる場の状態を目指して建築をつくっていきたいと考えている。

●想像を頼りに交流の場を設計に落とし込む

数年前に竣工した「まちのような国際学生寮」という大学の寮がある。200人程の留学生と国内学生がともに生活をする寮では、日常のなかで交流のきっかけとなる要素が求められた。4層の吹抜けのなかに浮遊するポットと名付けた階段の踊り場のような居場所はフロアを横断した学生同士の関係が生まれるだろうと想定した。寮室の扉の横にある有孔ボードは自己紹介ボードとして自己発信のきっかけを想像した。

設計時、こうつかわれるといいなという多数の想像を頼りに設計に落とし込んでいく。そして竣工後、それらは想像を超えて、無数の可能性としてさらに進化するのである。先日、訪問した際は、エキスパンドメタルの手すりには洗濯物が乾してあり、有孔ボードは個々のキャラクターが爆発しているのである。みんなの場でもあるけれど、自分の場でもあるという不思議な所有感が発生していた。それらは決してデザインが洗練された美しさとは違うけれど、つかい手の営みが鮮明に見えるものである。竣工から3年経ち、ようやくつくり手の意思がつかい手によって更新されたように感じた。

現在、進めているいくつかの集住系のプロジェクトにおいても、そのまちのコンテクストや環境を最大限体験的な価値に引き寄せられるような建築を考えている。そこに、つかい手の生活が加わって、初めて風景として成立してほしいと思っている。

設計中のわたしの思いを裏切った、無数の可能性をまた見てみたい。誰か1人がつくった美しさではなく、設計者の意思につかい手の意思が共鳴した、そんな偶発的な美しさも価値あるものかもしれない。


(2022年1月24日更新)





▲河井寛次郎記念館より。2階へとつづく階段。2階床梁から吊されている数珠は手すりとしてつかわれている。(クリックで拡大)


▲河井寛次郎記念館より。2階の吹抜けから見下ろす。棟梁に設けられている滑車。(クリックで拡大)


▲河井寛次郎記念館より。中庭の一角にある素焼窯。中庭が暮らしの場と仕事の場を緩やかにゾーニングしている。(クリックで拡大)




▲まちのような国際学生寮より。吹抜けトップライトからの光によって内部に明るい場と少し暗い場が共存する。(クリックで拡大)


▲まちのような国際学生寮より。スラブで区切られるのではなく、居場所と居場所が連続していく建築を目指した。(クリックで拡大)




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