●幼いころの雑木林での体験
神が潜むという言葉から最初に浮かんだのは、幼少期に遊んだ雑木林だった。筆者が小さい頃住んでいた街には、ほとんどの地域には住宅地に隣接して雑木林があった。
雑木林は、路上や公園など計画的に作られた場とも自然を体験するために作られた公園やビオトープのようなものとも異なり、誰かのために用意されたものではない。どこを通るか、どう使うか、即興性と能動性が求められる場であることに、今の日常にはない価値があったのではないかと思う。
家のそばにあった雑木林は少しずつ市街化され、今ではすべて宅地になった。都市は特定の機能で埋めつくされ、「余白」は残そうとしないと残せないものであることを、その頃の私には幼すぎて理解ができなかった。
●特定の機能が計画されない余白が存在すること
パンデミックにより、情報技術が都市の道具的価値を補完可能にしたことで、都市と山村などの2拠点居住などがより加速されている。都市にも相応の公園や広場が確保され、植物に覆われた空間は存在しているが、その機能は制限的で、能動性を喚起する多様な場となり得ていないため、都市離れ、自然回帰が進むと仮定してみる。
山村の自然には、あらかじめ計画されていないことによる能動性を喚起する内在的な価値がある。人間のために用意されたわけではない、その無意図で多様な内在的な価値に人間は惹かれているのではないかと考える。
人工的な自然に向き合い、寛容で多様性のある余白を計画することで、都市でも能動性を喚起する場の生成が逆説的には可能になるのではないだろうか。
かつてミースが特定の機能のためではなく、あらゆる用途のための空間としてユニバーサルスペースを説いたのはあまりに有名だが、要素を減らしワンルーム的な空間を志向したことで、ベンチューリが建築の多様性と対立性でLess is boreと応答した。
ユニバーサルでありながら多様であることが併存し得るようなオルタナティブなユニバーサルスペースというものがあり得るなら、そのきっかけとして人間が作り出してきた雑木林のような人工的な自然について考察することが一助になるのではないか。
●当たり前の風景の尊さ
原生林でも、里山でもないでもない、人間の活動とともにあり、日常に隣接した取るに足らない雑木林のような、一見無機能で何に使うか分かりづらい場を残すこと(作ること)。それが日常の風景として設計者の意図を超えて能動的に使われていく場の生成を可能にするのではないか。
ディテールに宿る神がいるように、寛容さを許容する全体に宿る神もいるかもしれない。当たり前の日常がもっとも尊いように。
(2021年10月20日更新)
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▲筆者の地元にかろうじて残る雑木林。(クリックで拡大)
▲特定の機能で満たされた都市を俯瞰する。(クリックで拡大)
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