●目の前にある素材に手が反応してできた形
数年前、ノルウェーの電車も通っていない小さな村で、集落から少し外れた薄暗い倉庫の前に看板が立っているのを見つけた。なにかお店らしきものだったので興味本位に足を踏み入れて見ると、中に入るなり強烈な動物の匂いがツンとした。動物の表面の展開図そのままの毛皮や、1メートルほどはあるトナカイの大きな角が壁にかけられていて、北欧の先住民族サーミ人が夏の間だけ場所を借りて彼らの作っているものを売っている店だと分かった。
その中で目に留まったのがくにゃくにゃした形の木の器だ(写真1)。木でできているのに、木材であることを忘れてしまうくらい有機的な形で、掴んでみると柔らかい感触。湖などで水を汲んで飲むためのものらしい。確かに掴んだ時に手にフィットする形だが、なぜこんなに不思議な曲線になるのだろう。売っている人にこの形はどこから来ているのか聞いてみると、なぜそんなことを聞くのというような怪訝な顔をされ、木を削っていたら自然にこうなるもの、とぶっきらぼうに言われた。
後で調べたら白樺のこぶからできているようだ。白樺のこぶの形と、水を汲んで口に持っていくという行為の間から生まれたかたちで、それぞれの形はこぶの大きさや使う人の手の大きさによって異なる。
同じく数年前、茨城県の都市部から山をいくつも越えないと辿り着けないような奥地で、小さな直売所に立ち寄った。客のいないひっそりとした店内には近郊で取れた野菜に混じって、藁で編まれた鍋敷きが棚の角の方にちょこんと置いてあった(写真2)。数百円の値段と農家の人の名前が書かれたシールが貼ってあり、地元の農家の方が農作業の合間に作ったもののようだ。
米を収穫した後に副産物である藁を整えて、巻いて、縛っての繰り返しでできた丸い造形。どこかで見たイサム・ノグチの輪っかの彫刻のような力強さだ。制作した人の手の力加減が、藁の太さや丸の大きさ、強度に直接影響してくる。
これらの造形物は机上でデザイン画を引くこともなしに、素材と作る人の手が出会って出てきた形である。理性的に頭で考えられた形ではなく、目の前にある素材に手が反応してできた形。
同じような形のでき方として、ルース・アサワ(Ruth Asawa)というアーティストが作る金属ワイヤーの作品(公式サイト)も挙げられるのではないかと思う。農家の娘だったアサワは、かの伝説的な美術学校ブラック・マウンテン・カレッジで、アンニ/ヨゼフ・アルバース夫妻やバックミンスター・フラーに学びながら、カレッジの共同コミュニティの一員としてバターミルクを毎日攪乳するという仕事を完璧にこなしていたそうだ。
卒業後には6人の子供を産み育てながら制作を続けていたアサワだが、日系人である彼女が戦前戦後のアメリカでどんな試練を乗り越えてきたかは想像を絶する。だがアサワの造形はそんな厳しい経験を微塵も感じさせず、軽やかで優しい。ただ、この柔らかい空気のような作品は、何百メートルもの硬い金属ワイヤーが1つひとつ手で編み込まれたものだと考えると、やはりその背後に作り手の強靭な精神のようなものを感じる。
●ものを作るということの本質とは
サーミ人の器も、直売所の鍋敷きも、アサワの作品も、どこか柔らかい表情をしているが、作っている方の手はどんなだろう、と想像してみる。ひび割れを起こしているようなざらざらとした厚い皮膚だろうか。時には動物を捌き、畑を耕し、羊の乳を絞り、時には子供をあやす手。どんな時でも休むことを拒絶する手。
生きることに必要な毎日の営みの延長線上から生まれたその形には、デザインとかアートとか工芸とか、そういった言葉で分類される以前からずっとあるような、生きているものの力強さのようなものを感じる。そこにあるのは、いかなる批評も受け付けない、あらゆるものから独立した、働き続ける人間の手の動きだ。この動きが素材と出会ったとき、素材がまったく違う次元へと昇華されていく。
これらの形を見たとき、私はものを作るということの本質とは何なのか、問いかけられているような気がして背筋が伸びる。
(2021年5月28日更新)
|
|
▲写真1:サーミ人の器。白樺のこぶからできている。。(クリックで拡大)
▲写真2:茨城県の産直所で購入した鍋敷き。(クリックで拡大)
|