芦沢さんよりバトンをいただいた際、テーマを聞いて頭にふっと浮かんだ景色があった。ヘルシンキで岩の教会と呼ばれる「テンペリアウキオ教会」の美しい岩肌である。氷河期の岩をくりぬいて、1961年にスオラマイネン兄弟によって設計されたその場に足を踏み入れた時、「八百万の神」のような、あらゆるものに宿る自然神を大事にする考えに、共感をおぼえた。
天井のコンクリートの梁からこぼれる柔らかい外光を受けてその姿を見せる赤みがかった花崗岩の岩肌は、銅製の鈍く光る天井や青く澄んだ空を切り取る無数のガラスによるコントラストによって浮かびあがる。大きな岩のくぼみは、光によって新たな質感や手触りがうまれ、神々しい空間をつくりだしていると感じた。
私は、サーフェイスを構成する要素、CMF(色、素材、仕上げ)をデザインすることにより、モノや空間に感情を宿らせたいと思っている。色や素材、仕上げだけを切り取った「カバーリングとしてのCMFデザイン」を目指してはいない。互いを引き立て合うCMFの絶妙なコントラストや馴染みが、あたかも最初からバシッと決められていたように自然に構成されたものを前にした時、ちらりと神が顔を出す。
●イサム・ノグチの照明「AKARI」
彫刻家イサム・ノグチが手掛けた照明「AKARI」シリーズは、光の彫刻とも言われ、発砲スチロールを削り出す検討から、35年で200種以上のかたちやサイズが生み出されたとされる照明シリーズである。有機的なフォルムは和紙のもつ柔らかな質感をまとい、ぼんやりとした透過光が、心穏やかな気持ちへと導いてくれる。
中でも、「1Aシリーズ」の佇まいは、明かりがついていない時でも、どこか動物的で愛らしく、親しみを抱く。その゛親しみ“の引き立て役として、華奢なワイヤー脚があると見ることができる。ほっそりとしているが、きちっとしていて揺らぎのない黒いワイヤー。シンプルで短い脚のバランスにより、提灯部分のぽってりとした愛らしい形状が強調されている。このワイヤー脚は、照明の構造にもなっているが、曲げ加工部が把手となり、照明として見えてこない部分も一体形状として美しい。
複数のCMFが互いを引き立てあい、自然と穏やかさや親しみを感じることができる、「神宿るプロダクト」であると思う。
●手のひらの中の感覚
イタリアで車のインテリアデザインを担当していた時、同僚の言葉がストンと自分の中に落ちた。「車を購入した人が初めてその車に触れるのは、ボディではなく鍵。初めて自分の手のひらで握りしめたその鍵は、どんな重さで、どんなテクスチャーで、どんな温度か。いつも持ち歩いていたいとその人が思う鍵の延長線上にある空間を、インテリアとして表現すればいい」と。
確かにCMFデザインは、視覚的情報ばかりを追求すると、実体験に欠けた、意図しない感情に導いてしまうことがある。しかし、手のひらの中の感覚を共通言語とすることは、個人差が少ないように感じる。ぷにぷに、ふにふに、ぶにぶに…これらはすべて違う感覚だが、それぞれに抱く「感情」が結びついている。
以前、「ソフトで上品な家具シリーズ」を開発する機会があり、家具の形状に合わせ「やわらかな木肌」をデザインした。色味だけでなく、重量感や温度感(さらり、しっとり)も頭に置き、明度によって柄のコントラストを細かく変えたところ、想像以上に深みのあるやわらかな仕上がりとなった。
手のひらにモノをのせた時の感覚を、オノマトペ(擬音語、擬態語)などを使って表現し、全体を構成することは、神に出会えるチャンスを増やす大事なプロセスであると思っている。
(2020年7月10日更新)
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▲外光の取り込み方によって岩肌に新たな表情を与え、神々しい空間となっている「テンペリアウキオ教会」(著者撮影)。(クリックで拡大)
▲「テンペリアウキオ教会」花崗岩の岩肌(著者撮影)。(クリックで拡大)
▲「テンペリアウキオ教会」エントランスの十字架 空も素材として取り込んでしまう透明感のある意匠。公式HPより引用。
▲自らの手で発泡スチロールを削り出し「AKARIシリーズ」の形状の検討をするイサム・ノグチ氏。公式HPより引用。
▲愛らしい佇まいの「AKARI 1Aシリーズ」。公式HPより引用。
▲「AKARI 1Aシリーズ」のワイヤーフレーム。照明として見えてこない構造も美しい(著者撮影)。(クリックで拡大)
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