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コラム

澄川伸一の「デザイン道場」

その67:漂うものを掴まえる話…達人のことば

澄川伸一さんの連載コラム「デザイン道場」では、
プロダクトデザイナー澄川さんが日々思うこと、感じたこと、見たことを語っていただきます。

イラスト
[プロフィール]
澄川伸一(SHINICHI SUMIKAWA):プロダクトデザイナー。大阪芸術大学教授。ソニーデザインセンター、ソニーアメリカデザインセンター勤務後に独立。1992年より澄川伸一デザイン事務所代表、現在に至る。3D CADと3Dプリンタをフル活用した有機的機能的曲面設計を得意とする。2016年はリオオリンピック公式卓球台をデザインし、世界中で話題となる。医療機器から子供の遊具、伝統工芸品まで幅広い経験値がある。グッドデザイン賞審査員を13年間歴任。2018年ドイツIF賞など受賞歴多数。現在のメインの趣味は長距離走(ハーフマラソン91分、フルマラソン3時間20分、富士登山競争4時間27分)。




●きっかけは雀友だった

自分が29歳の頃の話だ。

独立したての頃、まだ仕事も少なかったこともあり、とにかくコンペばかりやっていた。なんとかギリギリ賞金で暮らしていた。そのうち、僕ががソニーを辞めたという噂が大学の同級生に広がり、ありがたいことに大手企業の同級生から、仕事の依頼が入った。彼は麻雀の友達だった。忘れられない思い出がある。大学時代、西千葉の雀荘で、僕が大三元を積もった瞬間、ラジオから「ジョン・レノンが撃たれた!」と。それ以来麻雀はやっていない。

雀友から依頼された仕事としては、「未来の携帯性のある情報端末」というお題だった。3か月くらいで自分でもクライアントにも気に入ったものができ上がったのである。ソニーで8年間頑張ったスキルは、外部でも十分通用する手ごたえを確認することができた。ありがたいことに、クラアントからは社外的にもどんどん発信していいよという話になり、タイミングよく「AXIS」というデザイン雑誌にモックアップの写真が掲載された。当時は有機的曲線を使ったデザインもまだそんなに多くなかったこともあり、いろいろと話題になった。また、当時はプロダクトデザインが脚光を浴び始めた時期でもあり、デザイン雑誌の購読数も、ものすごく多かった時期であった。特に「AXIS」は英文併記もされてあったので、海外デザイン関係者での閲覧もかなり多かった。

雑誌が発売されてすぐに、今度は、AXISの記事を見た英国の「インターナショナルデザイン年鑑」の編集者から、このあなたの作品を次年度の年鑑にぜひ載せたいというオファーが来たのである。そして僕のほかの作品も紹介してもらえないかと。当時三軒茶屋の事務所でこの封書を開けて読んだときには何かの扉が開いたような実感があった。

普段は、砂を噛むような絶望的な1日が無限に続きそうで、めげそうな日常というのが普通の状態と考えている。しかし、モーゼの十戒のように、環境が激変するような特別な切り替わりの節目に遭遇する時がある。それは瞬間的なものであるが、明らかに今までとは違う位置に自分が移動した感覚なのである。それを掴むか、掴まないか。気づくか気づかないかでその後の人生は激変する。デザインに関しては、今まで5年に一度くらいにこういうことが起きている。ブルース・リーの「死亡遊戯」のように階段を上がっていく感覚にも近い。

その年、他のコンペで賞を獲った作品とこの情報端末がこのインターナショナルデザイン年鑑に掲載された。デザイン年鑑のページ最後の作品は自分の名古屋デザインコンペで二席を取ったソーラーバイクのデザインになった。これも嬉しかった。この年鑑デザインの編集には現代建築界の神様的存在であるフランスの建築家であるジャン・ヌーベル氏セレクションという記載もあるのでお墨付きだ。話はどんどん加速していき、今度は、ジャン・ヌーベル氏の選択で、年鑑の抜粋作品構成でドイツの美術館で展覧会をしたいので、作品をドイツに送ってもらえないか? という依頼がきた。招待状も届いた。交通費は出ないが、五つ星ホテルに安く泊まれるということだった。

●メンタル的の支えとなった5分間

このころは独立して間もなく、また世界一周放浪の旅とかしていたのもあって、貯金もほとんどなくギリギリの生活ではあったものの、ここは人生の転換期なのだろうと信じて、旅費とかいろいろ工面して、何とかドイツのブレーメンの展覧会のオープニングに参加した。この判断は結果的に正しかった。ヨーロッパ的に制服のような黒っぽい服装で、インテリ系の顔つきがうじゃうじゃいるレセプション会場。TVもたくさん入っていた。昨年の選定者のロン・アラッド氏や今年のジャン・ヌーベル氏にも合うことができた。2人とも、当時の世界でもっとも輝いているクリエイターだけに、100メートル離れていても独特のオーラを放っていた。そういうスターって、群衆の中でも、その人を中心に必ず同心円の人の輪が発生しているので、すぐに認識できる。まさに、文様である。これは世界共通で面白い。

何となく、2人に近づけるタイミングがあり、日本から来たよというと、2人とも喜んでくれた。僕の作品もちゃんと覚えていて、褒めてくれたのも嬉しかった。本当のトップってどの業界で、何らかの結果を出しているクリエイターに対してはとてもフランクである。作品さえしっかりしていればという前提条件はあるが、必要以上に威張って、相手を見下ろしてくる巨匠というのは、まずほとんどいない。もしいても、それは業界からすぐ消える偽物なのである。この2人の巨匠との5分程度の立ち話で、何かたくさんの大事なことを吸収できた。駆け出しのデザイナーにとっては、とても貴重な瞬間だった。以後、この瞬間がメンタル的な支えとなってくるのである。

自分はといえばソニーにいた時は、デザイナーとしては、それなりの自信もあったのだが、独立したてのフリーランスの立場として、自分の将来にも相当な不安を感じていた時期だった。もちろん、デザイナーとしては自信があったからこそ、給与的には充分に恵まれていた当時の状況を捨てて独立したのであるが、世の中でのデザイナーとしての自分の座標位置というのが見えていない不安というのがあった。

そしてさらに、自分の見かけに関しては現在もそうなのだが、実年齢よりもかなり若く見られてしまうのである。実はこれがビジネス的には非常にマイナスだった。実際の経験値よりもはるかに少なそうに見られてしまうのであるのはハンディーである。端的に言えばなめられるのである。これは現在に至るまで、とてつもなく損をし続けている。この現象は海外に出るとさらにひどくなる。人間としての扱われ方が雑になる。特に同年代以上の男性からだ。これは間違いない。しかし、こればかりはしょうがないのである。

デザイナーで同世代のフランス人のロス・ラブグローブとか、30代なのに真っ白な髭はやして、頭に毛がなかったりして、経験値がたくさんありそうに見えてある意味うらやましかった。ただ、そのために変装するのもまた変な話だろう。こればかりはどうしようもない。年下から、年下扱いされるのはもう運命だとあきらめることにした。

とにかく、ドイツの展示会場で、ロン・アラッド氏やジャン・ヌーベル氏は、同じデザイナーとても優しくしてくれた。しかし、それ以外の事務局の人とかには、ただのアジアの学生が来たみたいな雑な扱いしか受けなかった。自称メディア関係みたいな人種もそうだ


●達人たちとの出会い

まあ、そういう現実を受け入れるしかない。会場をとぼとぼと1人さみしく歩きながら、展示作品を観察していると、どうも日本人らしきおじさんを発見した。尋常ではない文様の染物の服をまとわれていて強烈な存在感を放っていた。当時はまだ、中国や韓国のデザイナーも少なく、会場の中にアジア人がほぼ皆無であった。

会場には日本人はいないと自分も思っていただけに、その日本人らしき人から、逆に声をかけられて、「新井淳一」というテキスタイルデザイナーだと自己紹介された。帰国後に分かったのだが、世界的に有名なテキスタイルのクリエイターであった。ドイツの美術館の広い会場の中で日本人が、新井さんと自分の2人だけだった。新井さんは、秘書らしき人もいなく1人で来ていた。お召し物の織物の独特の模様は「シナプス」を表現したものだということでこれも驚いた。

15分くらいだろうか、かなり話し込んだ。たくさんメモもとった。立ち話の場所が、何故か共通の知り合いで、この場にはいない喜多俊之氏の作品の白いテーブルの前だった(喜多さんは現在の私の大学のほうの直属の上司でもある。いろいろと不思議なご縁を実感する)。新井さんとは、お互い、久しぶりに日本語で話したかったのもあるのだと思う。たくさんのデザインの大事な話をした。そうこうしているうちに、オランダのTVが新井さんを取り囲んでインタビューの取材が始まってしまった。自分は、いろいろ書き込んでもらったメモを大事にしまって、フェードアウトしてその場からそっと消えることにした。

新井さんとは帰国してから、その後10年以上も交流が続くことになった。桐生にあったご自宅にも何度か遊びに行かせてもらった。とにかく、その後もたくさんの大事なことを教えてもらった。一緒に金属繊維のお仕事をしたこともある。

「バタフライエフェクト」とか「風が吹けば桶屋が儲かる」という連鎖の話があるが、そんな感じで、あれよあれよと自分の身に展開が連鎖していった。人生の展開というのは本当に予測がつかない。小さいドミノが最終的にに巨大なドミノを倒していく感覚だ。それは突然始まる。最初のきっかけはとにかく、大学の麻雀友達からの仕事打診であったのだ。ここからの連鎖がものすごかったし、今のデザイナーとしての自分を構成している大きな出来事なのである。

自分は、独立直後の無名な立場でも、世界的な巨匠と接点が多かったように感じる。理由は分からないが、がむしゃらに作品だけは作成して発表していたので、それが良かったのかもしれない。そして巨匠のほとんどは、高齢でも異常なくらいに元気で、いつまでたってもその距離は縮まらないものなのである。これは芸術の世界全般に共通していると思う。

●漂うアイデアを捕まえる

ドイツのブレーメンでの新井さんとの立ち話の中で、アイデアはどうやって見つけるのですか? と質問したところ。新井さんはこう言った「アイデアは見つけるものじゃない。」「空中に漂っているものを捕まえられるかどうかなんだよ」。ドイツで言われたときは、ビジュアルは脳内で浮かぶものの、結局何だかよく分からなかったのだが、これが数年前から、何となく分かるようになった。分かったような気になっているだけなのかもしれないが。自分なりの解釈というものがだんだんとでき上がってきた。

自分の解釈はこんな感じだ。新しい仕事のテーマが発生した時に、自分の脳の小窓みたいなものを少し開けておく。すると、日常生活で流れていく出来事の中に混じってその答えがふっと通り過ぎる瞬間がある。独房の中の小窓のような感覚。窓をちょっとだけでも開けておくと、たまに新鮮な外気がすっと入ってきて心地よいみたいな感覚だ。

でも、その小窓を開けないと、視覚的にも何も見えないし、複数の小窓を開けて、多くの仕事に対応しておく必要もある。要は、無数に流れていく海中の魚の群れのような中から、目的のそれを掴むか、見過ごすかなのだろう。「アイデアを出そう!」って思いっきり力んで、夜中のバットの素振りみたいなことしても、脳は空回りして何も出てこないはず。

時間をかけて、大勢でブレインストーミングとかKJ法とかやっても、満足感はあるものの使える結果が結局は出なかったという経験は誰もがあるのではないだろうか。デザインとはそういう儀式的なものではない。「デザイン思考」というのもなんか違う。デザインはマニュアル的なものではない。予想もつかない、一見非論理的な飛び道具が必須だろう。

その飛び道具的な答えは、分析すればとても論理的に説明できるバックグラウンドを持っているはずだ。強いて言えば、ジャズのアドリブに似ているのかもしれない。とんでもなく地味で基礎的なスキルの鍛錬、論理的なスキルの何層のも地層がある背景で、一度それを封印して、じっと上空の状況を観察するような。獲物が見つかった瞬間にジャンプして捉える。潜んでいる時間は、休息時間とは180度異なる。

脳も身体も80%脱力して、でも、アンテナは機能している状態。緊張と脱力のバランス世界。そこでは自分が客観的にどう見られているとかいう、SNS的な雑念は完全消去されていないとだめだ。その状態で獲物を掴むことができるかどうかなのだろう。深海魚のチョウチンアンコウの映像がイメージできる。あまり美しくはない(笑)。

運動や音楽もそうなのだが「脱力した状態」「緩める状態」というバランスがものすごく大事だ。ほんの一瞬の力を入れた状態を作り出すには、常に緩めた状態と円運動と呼吸みたいなリズムが大きく関係してくる。これからも、もっともっと掴めるように鍛錬していきたいものである。自分の意思とは関係なく。答えは空中に漂ってくるのである。

 


2024年3月1日更新




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