●喫茶店
「コーヒー」と書くより「珈琲」と書いた方が良い香りが漂ってくる。
言葉の選択というものはかなり重要で、日常生活にも大きな影響力がある。日本語の場合は世界的にも特殊で、ひらがな、カタカナ、漢字と3種類の文字が複雑に絡み合っているため、どの言葉を使うかでもかなり印象や結果が異なってくる。
「珈琲」は、昔の日本の出島とか鎖国時代の当て字だと推測するのだが、この漢字の選定はかなり良いセンスだと思う。2文字とも王の字の偏が使われていることでも、昔の高級品であったような風格が感じられる。今でも見知らぬ街を歩いていて、ふとこの文字のデザインされたサインの古びた喫茶店に遭遇すると、どんなに美味しい珈琲を出してくれるのだろうか? と勝手な妄想が始まる。
地方に行くとよく出くわすことの多い、こういった今や絶滅危惧種の昔ながらの喫茶店も、やはり同類の銭湯のように、希少価値であってもやがて淘汰されていくのだろう。文化遺産としてもじわじわと消滅していくのはとても残念である。愛知県にある明治村のように、こういったレトロの喫茶店や銭湯を移築保存してテーマパークとして維持していくことは不可能なのだろうか。
ちなみに明治村では、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルのロビーが移築されていて、その趣あるロビーで美味しい珈琲を楽しむことができる。近ければ、毎月でも行きたいのであるが。
●ペーパーフィルター
珈琲の香りというのは、どんな時でも間違いなく心地よく脳細胞を刺激してくれるのでありがたい。合法的なドラッグなのだろうか。世界でも珈琲が禁止されている国がないのはすごいことかもしれない。たばことかアルコールと比較しても、健康的にはあまりダメージはないように感じる。珈琲の飲みすぎで死んだという人は聞いたことがない。
珈琲といっても実にさまざまな種類とその段階がある。中には茶色くて苦いだけで香りのないものもかなりある。しかし、そこそこの値段を出せば、珈琲の快感を感じる香りはある程度楽しめると思う。嗜好品というのはありがたいもので、仕事の作業の区切りでそれを楽しめると思うと残りの作業も頑張れるものだ。頑張るための言い訳として今日も、美味しいコーヒーを飲んでいる。自分にとってのデザイン作業では「珈琲」は欠かせないものの1つである。
紅茶や中国茶、そして日本茶といろいろ試してきたのだが、やっぱり気が付くと「珈琲」に戻っている。それも、インスタントとかコンビニのそれではなく、可能な限りはペーパーフィルターで時間と手間をかけてハンドドリップしたものがいい。ネルドリップも一時期はやっていたのだが、如何せん、後処理が面倒で持続できなかった。
ペーパーフィルターは、ドイツ人のおばさんが相当昔に発明したものだそうだが、全世界にここまで普及するとは思っていなかっただろう。これは素晴らしい発明だ。掃除機の紙パックにも似たようなものを感じる。合理的で無駄がない。イタリアのように、蒸気の圧力で金属の笊上の器に放出するやり方もあるが、あれはあれで力任せできれいになるので持続性はあると思う。
イタリアのエスプレッソ系のものも大好きではあるが、ミラノのまるで角打ちのような狭い店内で、店に飛び込んできて注文して3秒で飲み干してすぐにまた街に出ていくというイタリア人の習慣と、日本のゆったりとした時間が伴う「珈琲」の楽しみ方とか味わいってまったく別物のような気がする。ミラノのエスプレッソは、マラソンレースでの給水所とイメージが重なってしまう。完全なる補給である。でも、あの美しいデミタスカップの存在は、その3秒間にだけ使われる道具としては完璧なのかもしれない。あれはあれでいいと思う。
最近は、朝起きてすぐに、ダンベルを両手に持って、ワンブロックをランジしながら1周することから1日を開始しているのだが、そのちょうど1周の6分程度の時間で、珈琲の蒸らしタイムが完結するという感じなのだ。事務所のドアを開けた瞬間に、香ばしい珈琲の香りが出迎えてくれるのは本当に贅沢でありがたいものである。6分散歩のあとは、顔洗って歯磨きしてから最高の珈琲を飲みながら、今日の予定の詳細を組み立てて始動するのがルーティーンなのである。これはなかなかうまくいっているのでしばらく続けてみたいと思っている。ちなみにダンベルは1個が3kgである。
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先日、事務所とスポーツジムの途中に新しい珈琲屋さんができた。見たことのないような膨大な種類の豆があり、それを注文後に焙煎して挽いてくれる。メニューを見ても軽く200以上はある。珈琲豆ってほとんどがアフリカか中南米産である。まだ行ったことのない国も多く、注文するたびにその国旗のマークのイメージと合わせてどんな国なんだろうかと妄想も膨らんでくる。最近またこういったお店が増えてきているような気がするのであるが、珈琲好きにはとても嬉しいことだ。
本当に珈琲を極めるのであれば、自分で焙煎するべきなのであろうが、まだまだそこまでは遠い道のりのようだ。まずは、せめて100種類の豆の違いを時間をかけて体験していきたい。個人的な好みでは、コーヒーは少し酸味の強めのイエメン産のモカが好きなので、それを超える好みの豆の追求を楽しみとしている。焙煎には30分以上と結構時間がかかるので、注文してからジムで走ってサウナに入って戻るとちょうどいい感じででき上がっている。月に一度、この新しい豆の挑戦が今は楽しい。
●珈琲との時間
ところで、今まで、数えきれないほどの珈琲を飲んできたが、忘れられない一杯の珈琲というものが自分にはある。もう10年ほど前の話だが、24時間耐の奥多摩のトレランレースに出た時、ひどい骨折をしてしまったことがある。スタートして4時間くらいのあたりで、激登りの渋滞がなくなったので調子に乗りすぎてペースアップして、大きな段差をジャンプして着地に失敗。竹を割ったような大きな音がして、見れば自分の左足首が完全に反対側を向いてブラブラしていた。幸いにして開放骨折ではなく、出血はない。面白いのは人間の防衛本能としてアドレナリンが発動したのだろう、痛みはそれほど感じない。感じるというよりは、メンタル的に「ああ、やってしまった!」という後悔の念でその時は頭がいっぱいだった。
まずは、ブラブラになった足首を自分で元の場所にはめ込んだ。ほとんどプラモデルである。見た目は何とか普通に戻ったのだが、どう考えてもいろんな骨が折れているのは間違いない。このあと、どうなっていくのだろうか。出血がなかったのが幸運だった。途中、救急救命士の選手がいたおかげでリタイアが可能な場所まで肩や背を借りて基本は自力で歩いた。そこからの道中、貴重なストックを貸してくれた選手や、痛み止めの薬をくれた選手など、世の中には親切な人がいるのだと改めて感じた。ほんとうに感謝でしかない。
何とか、リタイアが可能な場所にたどり着いて、そこでしばし救助を待つことになったのであるが、そうはいっても山深いエリアで時間はかなりかかりそうだ。この中継所で、多分レースボランティアの人だと思うのだが、「珈琲を淹れましょうか?」と言われて、瞬時にお願いした。山の中はすっかり日も落ちて薄暗くなってきた。お湯を沸かすバーナーのボワーっという音が森の中でやけに大きく聞こえる。その音をバックに、美味しそうな豆をミルで挽いてくれるのであるが、何とも言えない芳醇な香りがすでに漂い始めてきた。お湯が沸いてくるとその音も泡が破裂する連続音に変化してくる。そして時間をかけて、ペーパーで珈琲を淹れてくれた。
この時間の使い方ってなんて贅沢なんだろうかと思った。所作の美学というものがある。珈琲の味も格別で、ひんやりした山の外気温で肌寒い中、この暖かい珈琲のありがたさを痛感した。この珈琲を飲んでいる時間は、自分が大怪我していることを一瞬忘れてしまった。めちゃくちゃ美味しかったし、この一杯の珈琲を最後まで飲み干すのがものすごく勿体なく感じたものだ。本当にありがたかった。
インスタントコーヒーであればほんの数秒で珈琲はできる。しかしながら、あえて手間暇をかけることで、数百倍美味しくなることを考えると、ある意味面倒なその段取りというものはもっと大切にしていかなければならないのではと感じる。「時短」という概念は確かに効率的ではあるが、その反面、ものすごく大事なことも失っているということに気が付くべきだろう。生きているうえで必ずセットとなる時間という事象だが、無駄なようでいて実は大事な時間も存在する。
2023年ももうすぐ終わる。自分史上に最高に美味しい珈琲を飲みながら、来年の目標を立ててみたい。2024年はいったい何が起きるのだろうか。
P.S. レースでの骨折は、左足腓骨と脛骨を完全にやってしまい、都合3回の手術になってしまった。しかしその2年後に、フルマラソンと富士登山競争の記録を更新することができた。やればできる(笑)。
2023年12月1日更新
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▲先日デザインしたコーヒーカップとソーサーです。冴えたブルーが珈琲の色を引き立てます。武雄焼 康雲窯さん「青藍シリーズ」。(クリックで拡大)
▲珈琲カップの持ち手のディテールです。繊細なブルーの色合いのグラデーションが美しい。指がちょうどよく収まる形状です。(クリックで拡大)
▲昔ながらの喫茶店。いかにも美味しい珈琲を淹れてくれそうな佇まいが嬉しい。木の扉も雰囲気いいです。(クリックで拡大)
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