●「てんしば」を走る
この夏は毎日が致命的な灼熱の気温の連続である。例年になく危険な感じさえする。でも、朝一で一度大量の汗をかきまくって、そのまま風呂に直行して、さっぱりすれば、割とその日1日が楽に過ごせるような気がする。今朝も、先ほど早朝の天王寺の街をジョギングし、出張先のホテルに戻ってきたところである。
とにかく汗をかくというのはいろんな意味でいいものである。気分的にすっきりするし、身体から悪いものが出ていくような感覚がある。ただ、ここで大事なのが、大量の汗をかいた運動直後に、すぐにシャワーを浴びて着替えることができるかという物理的な条件だ。汗をかきっぱなしの状態は地獄の気持ち悪さである。出張先のホテルや自宅であればすぐにシャワーを浴びられるが、とにかく運動終了後の段取りが肝心だろう。勤務先にシャワーや更衣室が完備していれば「出張ラン」も時間的に節約できていいと思う。もう15年使っている自分の事務所も、設計する時にシャワーが自分の机の背後に設置して非常に役立っている。
どこを走るかというと、東京の事務所では歩いて1分の野川公園の広大な敷地を走る。ここは東京とは思えないほど、自然が広がる稀有なエリアである。また、毎週の大阪出張では、いつ天王寺動物園周辺を周回するが、ここも巨大な池や古墳があり、たくさんの樹木に囲まれたちょうどいい公園になっている。早朝の散歩としても、とても気持ちの良いエリアなのである。ここは通称「てんしば」と呼ばれており、広場のデザインとしてグッドデザイン賞も受賞している大阪のおすすめスポットである。
天王寺動物園も通天閣と同じエリアで、歴史もとても古いのであるが、新設されたサイン計画などが秀逸で、これらはデザインの勉強にもなる。このエリア一帯は治安維持の問題で、夜間は施錠されて閉鎖されているので、逆に解放されている時間帯はゴミ1つなくいつもクリーンに保たれているのも嬉しい。
この「てんしば」エリアを走っていると、起伏や景観の変化とともに、エリアによる植生も変わるため、体感的な気温もどんどん変わっていく。そして、大きな木がたくさんある森のエリアに入ったとたん、ものすごい数と音量のセミの合唱である。まるで音のシャワーを浴びながら走っている感じである。この時期は、ミンミンゼミとアブラゼミで、まさにジリジリの日本の夏真っ盛りという感じである。
●セミの声
個人的にはツクツクボウシの鳴き声も好きだ。あの独特のツクツクボウシのメロディーの後半部分の絶叫型はなんともいえない頑張り感があるし、そもそも遺伝子として、全個体にあのメロディーが組み込まれていること自体がとても神秘的でもある。季節的な流れとしては、この後はヒグラシが鳴き始めるとなんだか夏の終わりを感じさせて妙にさみしくなってくるものだ。
ともかくセミの声に関して不思議なのは、これだけの大音量であってもまったく不快に感じないということ。なぜだろうか? セミの声というものは、これだけの大音量でもむしろ涼しさを感じるくらいに爽やかに感じるのである。人間が快か不快かと感じるのは、音の大きさではなくその音の発生源が自然のものか、人為的なものかによるのかもしれない。不快と感じる音ってどういう風に脳が分別しているのだろうか? 何故、人間が発した場合に音って不快になるのであろうか? じゃあ、気持ちの良い音楽っていったいなんだろう? 疑問は尽きない。
以前、マンション暮らしだった頃、上階の住人が深夜に突然卓球を始めたらしく、フローリングに跳ね返るトントントンという音が不規則に聴こえてきて、非常に不快に感じたことがある。まあ、こちらも楽器の練習とかもするのでお互い様なのであるが。
また、山で転倒して足を骨折して、突如に相部屋に入院しなければならなくなった時、まるでバイク音のような強烈な大音量のいびきの人がいて、精神的に限界に達して、看護師さんに部屋を深夜に移動してもらったこともある。この時は、本当にすさまじい音量で、部屋のほかの人たちは大丈夫だったのだろうかと今もたまに思い出しては気になっている。
不快な音に関しては、それだけ強烈に覚えている。前回のコラムで書いた「記憶」の話の続きではないが、こういった記憶が脳内に鮮明に残っているということを考えると、人が不快と感じる音というものは強烈なストレスであり、しっかりと記憶として残るすことで繰り返しを避けるように仕組まれているのだろう。
匂いもそうであるが、音も人間にとっては、とても大きなストレスなのである。人為的な音か、自然界の音か。同じくらいの音量であっても、例えば、いびき音が波の音であれば多分大丈夫なのだろう。将来的に、音の変換装置的なものがあれば、騒音対策には一役たちそうな気もする。いびき用のノイズキャンセラーとか開発されていてもおかしくないはずだけども、まだあまり聞いたことはない。音のデザインってもっと進化させるべきだろう。
●鳥の声
ここ数年間、週末はできるだけデザインから離れて自然の中に浸るようにしているのであるが、おかげさまでメンタル的にも身体的にもバランスが取れ安定した日々を送ることできている。とくに、山の中で聞こえてくる音も空気も極上に心地よいものである。特に春先から始まる鳥の声は興味深い。最近、面白いアプリを見つけた。「picture bird」というのだが、森とかで気になる鳥のさえずりをスマホで5秒間録音すると、それがどんな鳥なのか、写真入りで詳しく説明してくれるのだ。山を歩いていると、このさえずりはいったいどんな風貌の鳥から発せられているのかどうかを常に想像してしまうのだが、このアプリがあればそんな疑問が瞬時に解決されるので楽しい。
華やかな声のわりに意外に地味だったり、またその正反対だったりと期待を裏切られるのだが、その意外性が楽しいのである。このアプリのおかげで、個人的にはもやもやしていたものがクリアになった。何かこう、子供の頃の図鑑で興味を持ったものの名前や特徴を突き止めるという行為はとても楽しいし、本来の勉強の面白さなのではないかと思う。ファーブル昆虫記とかまた読んでみたくなってきた。
先日も、生きているタマムシを観られた。やはり非常に美しい。古来から工芸品の装飾としても使われているのもうなずける。結局はそういった気づきがオリジナルのデザインを生み出していくのだと思う。展示会や映画だけではなく、自然界から学ぶ部分、感じる部分がものづくりでは大事だろう。
●四季の音
季節にはそれぞれの音がある。秋になれば、虫の声が目立ってくる。静寂感がどんどんと色濃くなっていく。幼少の頃、吉祥寺の祖母の家で飼われていた鈴虫の音を聴きながら、昼寝をしていたのがとても心地よい記憶として残っている。今では、家で鈴虫とか飼っている人は極めてまれだと思うのであるが、とても風情があるし、癒されると思う。「鈴虫カフェ」とか今の時代にあったらすごくいいと思う。もちろん、某カフェみたいに、MacBookをパチパチやるのは禁止項目だ。何もせず、静寂の中に潜んでいる自然の音と向き合うのがいいのである。
季節はあっという間に変わっていく。やがて冬になり、雪が積もれば、さらに静寂に包まれる。外を歩いても自分の靴が雪を踏みしめるキュっという音だけ。たまに、木の枝から落ちる雪の音にびっくりしたりもするが、すぐにまた無音の空間に戻る。ソニーにいた時、音響実験の無響室というのがあったが、壁が音を跳ね返さないのでその部屋にいると、耳が聞こえなくなったような変な感じがしたが、それによく似ている。地方に行って、薪ストーブとかあるとさらに、こんどは木が燃える音で、また楽しくて寒さが和らいでくる。東北地方とかにある囲炉裏とかもそうだ。薪が燃える、パチパチという音は快感なのである。音の情報としても極上だろう。
四季があるというのは素晴らしいと思う。視覚的には桜の開花に代表されるように、花が時計代わりにもなっているのであるが、その背後にある季節の音というものも、もっと楽しんでもいいような気がするのである。
2023年8月1日更新 |
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▲車を使わず、20キロくらいの距離をゆるく走ると、思いがけない絶景ポイントに遭遇する。車が入れない場所にこそ魅力がある。(クリックで拡大)
▲大阪のマンホールは万博カラーでかわいい 大阪らしい発想。(クリックで拡大)
▲てんしば公園の奥に位置する大きな池。奥に通天閣が見える。(クリックで拡大)
▲東京では、1年を通してもっぱら事務所から徒歩1分のこの野川公園を走る。(クリックで拡大)
▲散策中に突然現れたひまわり畑。真夏に見るこの黄色はやはり鮮やかで気持ち良い。(クリックで拡大)
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