●まずは想うことが大事
まったく予想のつかない1年となった2020年。本来ならば、今頃はオリンピックの余韻に浸りながら、ゆったりとワインでも飲んでいるのだろうか。「TOKYO 2020」に向けてデザインした公式卓球台も、果たしてどうなるのか、複雑な思いもある。誰もがそれぞれの内面に、悔しい思いが残っている年末なのではないだろうか。飲食関係やイベント関係に携わる方々は本当に大変だと感じている。
しかし、このままずるずると暗くなってしまうのは悔しい。「時間」というものは常に自分の人生の終末に向かって容赦なく進んでいく「残酷」なものでもある。誰にでも例外なく、冷酷に時間は過ぎ去っていく。
自分としては、例えコロナ禍であってもできることは可能な限りやり続けてきたつもりだ。それを結果として何らかの形で示したいなあと感じていた。
なんでも、まずは想うことが大事である。いろいろな偶然が重なり、1月からコツコツの作業を進めていた作品群、特に佐賀県での地場産業での仕事を中心に、11月に個展を開催することができた。非常に幸運に恵まれたとしか言えない。
この個展のためにご尽力いただいた皆さんに大感謝である。実は、コロナの関係で本当に開催できるかどうかも半信半疑な状態のまま準備を進めてきたのであるが、ちょうど会期がコロナの第2波と第3波との狭間で感染拡大の谷間のような時期だったこともあり、期間は少なめの3日間、感染対策を万全にしてレセプションも自粛という設定で無事に開催することができた。
ちょうど「鬼滅の刃」がブレイクして人々が映画館に集結した時期と重なっている。キメツに関して言えば、あの独特の残酷性と描写がちょうど我々の内面に潜んでいるやるせないような怒りの感情とダブる部分があって、それが同調したのではないだろうか? アートと同じように、ネガティブなものでもその人の感情と波長が同期すれば、人は親近感を持って惹かれていくものなのではないだろうか。キメツ話はまた長くなるので別な機会にお話しできればとも思います。
いずれにしても、個展自体のコンセプトは、「コロナ禍でも、やるべきことをやった結果展」という感じで、観に来てくれた人がポジティブな気分になってもらえればというものであった。結果としては大成功だった。
個展自体は実は今回で3回目だった。グループ展などは、以前は何度も出展はしていたのだけれども、グループ展は個展とは明らかに異なる。それはまったく別物かもしれない。個展は自分一人だけの世界観というものがそこに表現されていなければいけないし、なにしろ作者個人の責任が重大なのである。
●人生の仲間たちと通りすがりの人々
個展を開催して会場にいるといつも思うことがある。変な例えになってしまうのであるが、それは自分のお葬式をいつも空想してしまうのである。と言っても、決して暗い話ではない。自分が固定された1つの場所にいて、次から次へと、かつての人生の仲間たちが訪れてくるという現象が不思議な感覚なのだ。
現在のクライアントから古くからのクライアントまで、また、かつての飲み仲間から大学、高校中学の幼馴染から、趣味のランナー仲間まで、自分の生きてきた過去を感じるひと時なのである。それに加えて、会場の外から見える作品に惹かれて通りすがりの人まで参加してくれる。こんなに嬉しいことはない。そして段ボール数箱分にまでなった、たくさんの差し入れや、綺麗なお花までいただき本当にありがとうございます。
高校生の時に、フィルムセンターで何度となく観たフェリーニの映画で「8 1/2」という映画がある。もう、ほとんど映画を撮っている監督自身を客観的に映画にしたようなものなのであるが、ところどころに出てくる回想のシュールな映像が魅力的であった。そのラストシーンにすべての登場人物が出てきて輪になって踊るという場面がある。なんだか、個展ってそんな感じがするのである。最後の主人公の一言は「人生は祭りだ。」なのである。
●現物と直接向き合い、手に取ってみること
コロナのせいで、もう人は誰もがマスクで顔半分が覆われるのがデフォルト。人は眼でしか表情を認識するしかない時代になっている。そういえば、iPhoneもマスクのせいでFace IDが認識できなくなったので、指紋認証のSEに切り替えたのだが、これはこれでコロナ時代にはとても便利なものだ。せっかく便利になったと思える顔認証システムもここにきていろいろな弊害が出てしまっているのはとても残念である。
マスクが標準になってくると、すごく久しぶりの人は、一瞬誰だか認識できなくて、記憶が解凍されるのに少し時間がかかる場合もある。致し方ないがそれだけ鼻と口から得られる情報量の多さを実感する。その反面、イスラムの女性のように眼だけが露出しているというのは神秘的でもあるし、ある種の想像力も喚起されてこれはこれで良いのではとも思えるようになってくるものだ。
特に女性に関しては、目もとのメイクに力が入り、そこに気合のようなものも感じられる。街中に美人が増えているように感じるのは僕だけではないだろう(笑)。授業で教えている大学生でも、いまだに顔の全貌を見たことがない学生が過半数だが、それでも授業は成り立っている。
食事を含めたマスクを外す機会というものが一種の親密さのバロメーターとなってくるのであろうか。全員がマスク着用の個展というのもある意味新鮮でもあった。
プロダクトデザインの個展は、画像ではなく現物と直接向き合えるということに尽きると思う。講演などもそうなのだが、ZOOMなどと違って直接の出会いというものは雲泥の差がある。もちろん、リモートはまたその合理的な便利性など含めて大きなメリットがあるが、プロダクトに関して言えば、得られる情報量は比較にならない。
特に高価なものであればあるほど、現物を確認してから購入するのが常ではないだろうか。そのサイズ感、質感から物自体が発するオーラは絶対に現物と対峙しないと得られないものである。今回は特に新作の椅子が展示の目玉であっただけに実際に座った時の感触を来場していただいた方には体験してほしかった。洋服と同じように、実際に着てみないと分からないモノはたくさん存在する。色や質感などは画像とはまったく異なる場合もある。器だってその大きさや重量など実際に手に取ってこそそのものの良さが理解できる。
現代はアマゾンを始め、ネットの画像情報とそのコメントを参考にしたモノ選びが主流である。ただ、現物を触ってみてそれに惚れれば、たとえ高価であってもモノを大事に使い続けていくのではないだろうか。他者のコメントよりも自分がどう思うかという判断がまず一番大事なのではないだろうか。
●もののオーラと創造のエネルギー
展示会場は広尾の閑静な住宅街。普段はフェラーリやポルシェなどを展示しているスペースだったのだが、外を通る車も、商用車以外は、つや消し塗装のベンツやイタリアの超高級車はじめ、外車ショーに登場するような車ばかりだ。
この界隈に住んでいる人たちは、文化的な視点が鋭い方が多く、外から見かけた椅子のフォルムに引き寄せられて会場の中に足を踏み入れていただけるケースがとても多かった。これは本当にデザイナー冥利に尽きる。大学でも学生にさんざん言っているのは、最終的にはモノが発するオーラがなければ人は惹きつけられないよ、ということである。いくらコンセプトが立派でも、それがカタチで表現できなければそれはデザインとは言えない。視覚でまずは秒殺して、さらにじっくり見てその意図が伝わるデザインというものを今後も目標として頑張っていきたいものである。
3日間の個展の会期中、ずっと会場にいて、たくさんの会えなかった人に会えた。そして、この1年間の集大成を直接に見ていただき、貴重なコメントもいただくことができた。ほとんどがポジティブなコメントで安心したものの、終了後は異常な疲労感がやってきて、かなり疲れたのも事実である。
今後、コロナがなくならない世の中であるとしても、また、感染対策は万全とした上で「コロナ禍でも、やるべきことをやった結果展2」としてまた開催したいと思っている。普段の日常が作品作りで人と会わずに籠りっきりなので、こういった場が次の創造のエネルギーとなることも再認識できた。
この場を借りて、開催にご協力いただけた方々と、広尾の会場にまで足を運んでくれた皆様方に厚く御礼申し上げます。
次の個展も楽しみにしていてください。
2020年12月1日更新
|
|
▲澄川伸一新作デザイン展の会場と筆者。(クリックで拡大)
▲澄川伸一新作デザイン展より「平田椅子製作所のLILLY」。(クリックで拡大)
▲澄川伸一新作デザイン展より「副島硝子の透明ブルーの皿シリーズ」。(クリックで拡大)
▲澄川伸一新作デザイン展より「丸田窯の重厚なMUTANOIR」。(クリックで拡大)
▲来場されたデザイン界の重鎮、川上元美先生と。
▲次回もお待ちしています。
|