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コラム

澄川伸一の「デザイン道場」

その23:自分のソニー時代

澄川伸一さんの連載コラム「デザイン道場」では、
プロダクトデザイナー澄川さんが日々思うこと、感じたこと、見たことを語っていただきます。

イラスト
[プロフィール]
澄川伸一(SHINICHI SUMIKAWA):プロダクトデザイナー。大阪芸術大学教授。ソニーデザインセンター、ソニーアメリカデザインセンター勤務後に独立。1992年より澄川伸一デザイン事務所代表、現在に至る。3D CADと3Dプリンタをフル活用した有機的機能的曲面設計を得意とする。2016年はリオオリンピック公式卓球台をデザインし、世界中で話題となる。医療機器から子供の遊具、伝統工芸品まで幅広い経験値がある。グッドデザイン賞審査員を13年間歴任。2018年ドイツIF賞など受賞歴多数。現在のメインの趣味は長距離走(フルマラソン3時間21分、富士登山競争4時間27分)。



●とんでもなく厳しく、楽しい組織

自分がデザインの真の面白さを学んだのは、間違いなくソニー在籍時だった。

僕のソニー時代の7年半のうち、4年半はアメリカ駐在だったのだが、残る3年間の東京勤務での経験はとてつもない影響を自分のデザイン人生に及ぼした。正直、アメリカ駐在時にプロダクトデザインで学んだことはあまりなかった。やはり、日本とヨーロッパが文化としても抜きんでていた。ただ、人生をどう楽しむか? 豊かな生活とは何だろう? というとても根本的なことに関しては、アメリカ生活で得られたことはすさまじく大きく、自分のその後の姿勢が大きく変わった。これはまた別な機会に書きます。

東京のソニーデザイン部(当時はPPセンターという名称)はとんでもなく厳しいのだが、とんでもなく楽しい組織であった。もう、独立してフリーになった時間のほうが3倍以上になってしまったが、今でもその延長で仕事をし続けている感覚なのである。今でもデザインセンターにいて一緒に仕事をしている夢を年に数回は見る。これはほんと。もう、心の中に完全に染みついている。

僕は身の回りのあらゆるものを自分の手でデザインしてみたかったので29歳で独立したのだが、フリーランスデザイナーとして、ソニーOBとして実績を残すことがせめてものソニーへの恩返しだと思ってやっている。こんなでも、かなり義理人情は重視する人間である。元同僚とのプライベートでの付き合いも、普通に継続されている。

●「美しい」「綺麗だ!」


ソニーのデザイン部に所属していた時、一番印象的だったのは「美しい」「綺麗だ!」という賛辞が日常的に職場で交わされていたことである。多い日だと「これは綺麗だ!」を10人くらいから言われたり言ったりしていたものだ。分かりやすく例えるならば 美術館で作品を見て回っているのに近い感覚である。

デザイナーのほとんどは、長時間、個人ブースに引きこもって、ドラフターと呼ばれる大きな製図台と長時間向かい合っているので、どうしても気分転換に人が書いている図面やレンダリングを息抜きツアーとして覗きに行ってはしばしの雑談をするのである。しかしながら、その描いている図面やらレンダやらがしょぼいものである場合、完全にスルーされるし、声をかけられることもない。人間関係においても、ここで悲しくて残酷な面も存在する。

逆にそのデザインが素晴らしかった場合には瞬時に人だかりができる。すんごいモックアップが上がった時などは1つのストリートパフォーマンス状態で人の輪がそのブースの周りにでき上がるのである。そしてその場で、例え夜中でも、白熱のデザイン審議が始まるのである。実に分かりやすい。

そんな、日常的に職場で歓声が上がるエキサイティングな場であった。皆個性が著しく強く、それぞれの個性のデザインカラーが極端に違っているからこそ、お互いをリスペクトできる環境が自然とでき上がっていた。造形テイストも違えば、レンダの手法もパントン、マーカー、鉛筆とぞれぞれ異なり自由な個性が炸裂していた。

ベテランも新人も、いわゆる一般的な会社の上下関係は存在しておらず、みなフラットな関係で自分の才能を爆発させていた。完全実力主義と完全個人主義で、デザインできる人間が強い世界。グループワークというものは存在せず、1人が1機種を完全に仕上げるという責任の所在が明確な仕組み。だから、新人でも、きれいなデザインを製品化ができればそれだけで評価されていた。そしてさらに次をそれ以上に頑張れた。

残業をドロドロとやって結果を出す人もいれば、さらっと定時に帰るけども、すごいアウトプットを出す猛者もいた。ようは「結果論」なのである。残業するけど結果も出せない人は、いられなくなって自ら自然消滅していく。ほとんどのデザイナーは夜9時くらいまで仕事して、五反田か高輪で一杯飲んで終電で帰宅して、また朝8時に出社というパターンが普通だったかと思う。今考えると、すさまじい体力だと感じる。

●リベンジに全社員が一体

千葉大を卒業して入社すぐに、僕は音響機器を扱う芝浦工場のデザイン部隊に配属されたのであるが、そこのM部長がまた個性の強い人で、今までの人生で出会わなかったタイプの人間だった。M部長は毎日ウインチ付きのランドクルーザーで会社に通い、いつもジーンズ姿で肩を揺らしながら歩き、ドスの効いた口調でめちゃ怖い存在なのだが、突然ブースにやってきては、笑顔で「お前…これきれいだぞ!」と一言残して去っていくようなかっこいい存在だったのである。

こちらが、その不意打ちに気が動転して気が付けば、もう、はるか遠くに後ろ姿が…。ちびりそうなくらい怖いのだが、ふと見せる優しさに参った。この部長に認められるように毎日毎日頑張った。自分の実力はこの部長の影響で著しく急成長したような気もする。そしてとにかく、上司から先輩まで皆、とてもかっこよかったし、芸達者だった。

バンドとかの音楽活動もたくさんしたし、限られたわずかな休日の時間をテニスやスキーで一緒に楽しく過ごした。誰もが素晴らしく魅力的で、プライベートの時間までも一緒だった。そして、ほとんどのデザイナーが非常に深い、深すぎるほどの「デザイン愛」を持っていた。

仕事とか給料を超えた何かがこの職場にはあった。入社当時は、CDプレーヤーのリリースや、カセットケースサイズのウォークマンの開発のタイミングでもあり、世界中のオーディオの変革期をソニーが仕掛ける真っ盛りだった。この背景にはVHSとベータとの対決での敗北があり、意地でもリベンジすべく全社員が一体となった意気込みを持っていて、会社の中がある種の興奮状態であった。

いろいろな革命的な策がありとあらゆるところで展開されていた。知る人ぞ知る「超能力研究所」というものまで存在していた。デザインセンターのモックアップ保管倉庫には、機密事項なので詳しく言えないが、世界中のトップデザイナーがデザインした超機密のラジカセやら、ヘッドフォンやらがそこら中にゴロゴロと転がっており、あり得ないようなデザインワールドが存在していたのである。これはもう、永久的に誰も見ることができない魔法のワンダーランドのはずだ。ただ、世界の巨匠のデザインよりも、ソニーの中の巨匠たちのレンダリングや造形のほうがよっぽど素晴らしかった記憶がある。どんなに素晴らしい車や家具のデザインができても、テレビやラジカセの造形って、経験値をかなり積まないと世界の巨匠でも難しいのだろうなと感じたものである。

●自由すぎるデザイナーの個人ブース

話を少し戻して、デザイナー各個人のブースを説明したい。ブースは箱型にパーテーションで区切られた、約3畳くらいの空間。そこに1800×900ミリのデスクが2つ、L字で組まれている。天板は表が白、裏が黒で自分の好きなほうで組める。各ブースはほぼ密閉空間なのだが、デザイナーがいろんなポスターや写真を貼っていたり、オーディオとかも持ち込んで好きな音楽を聴きながら仕事が許されるという、会社の中でも特殊な環境であった。

僕の場合はオーディオはもちろんのこと、ギターやらダンベルとか柔道着とか持ち込んでほとんど自分の家状態であったのであるが、それで誰かに文句を言われた試しは一度もない。むしろ来客? は多いほうであったように思う。音楽も大音量で聴いていても怒られるどころか、「この曲いいね! このCD貸してよ!」とか言われるくらいの環境であった。ここで知った素晴らしい音楽の情報も計り知れないほどたくさんある。

ブースには、かなり偉い人も良く遊びに来ていた(笑)。もちろん当時は、自分のブースでたばこも吸い放題(笑)。僕も、机に脚を乗っけて、くわえたばこでスケッチを描いていた。デザイン部では誰にも何も言われなかったのに、打合せに来た設計部長にいきなり怒られてびっくりした記憶がある。それほど自由が許されていたということ。ただし、結果ありきの大前提がある話ではある。

そこで交わされたデザイン論の交換や、くっだらない冗談とかがデザインエネルギーの源になっていた。その時間で生まれたアイデアも計り知れないほどたくさんある。デザイナーはヒントを得られれば、会話を遮断してまたすぐにドラフターに向かいそれを反映させていく。気を緩めた雑談の最中に、重大なデザインのヒントは突如としてひらめくものである。毎日がその繰り返しだ。

徹夜も日常茶判時で、いつも明け方限界にきて、机の下で仮眠をとっていると、朝6時の掃除機の音でよく起こされたものである。休日は午前中サーフィンして、そのまま車で会社に行き徹夜作業で月曜朝プレゼンというパターンもかなり多かった。会社を掃除してくれる人たちや、食堂のおばちゃんとも仲良かったし、まあ、会社の誰もが仲良しな不思議な環境であった。

唯一誰かに文句を言われたのは、配置換えで、僕のブースの壁向こうが、お堅い人事課になってしまい(失礼!)、徹夜でハイテンションのまま、マイルスの「Bitches Brew」を大音量でかけながらオーディオ機器のレンダリングを描いていたら、すさまじい勢いで壁を叩かれたことぐらいかもしれない。それが、文句であるということに気が付くのにかなり時間がかかったが。それ以来「Bitches Brew」を聴くたびに、隣の人事部長の顔が浮かんでくるので困ったものであるが(笑)。

●デザイナーとエンジニア

ソニーデザイン部の組織図が他の会社と大きく違うのは、トップと直結だったこと。デザイン部は盛田さん、井深さん、大賀さんのフロアの1階下で、デザイナーとトップとのやり取りが定期的にあった。そこで合意された案件は絶対命令となり、企画や設計、営業などの各部署に降りていくような特別な関係が成立していた。だからデザイナーが提案したものを現実化させるべく、設計者が世の中に存在していないものを開発していく。こういう社風があったからこそ、ソニーの設計部からノーベル賞クラスのエリートエンジニアも育っていった。今あるものを作るのではなく、今ないものを創ることに意味を見出していた本当に素晴らしい社風の会社だった。

そして、デザイナーにとって最大の難関は、毎週行われるデザイン部内会議である。ここで自分のプレゼンを行うのだが、いくらコンセプトが立派でも、造形がダサいと瞬時にぼろくそに皆に言われて、また来週となる。この繰り返しで、発売時期が迫ってくるのはひやひやした緊張感である。ちびりそうなくらいやばい状況だ。でも、誰も助けてくれない。自分だけで解決させなければならなかった。

いわゆる巨匠デザイナーはまず、これを1回のほんの数分でパスしていく。瞬時にバッサリと斬る日本刀のようなプレゼンだった。真似できるレベルのものではない。これは本当に見事であった。まあ、何とかデザイナーがこのデザイン会議をパスできれば次は事業部に1人乗り込んで、設計、企画、営業などへのプレゼンに入る。新人でも、1人で戦わなければならなかった。
事業部会議室のドアを開ければ、多い時は20人くらいの敵がそこに湯気を立てて座っている。全員を説得させなければならないのであるが、あの鬼のようなデザイン会議に比べたらかなり楽であり、また、設計担当者に「このデザインかっこいい!」「これ、俺が責任もって設計するから心配しないで!」と言わせれば、まず問題なく製品化に向けて動き出すのである。

保守的な営業や設計者とはまず、さんざんもめる。未経験のものを怖がるから。会議の場でこちらが論破しても、そのあと、彼らの部長クラスからクレームの電話がかかってきたりもした。「あまりいじめないでくれ!」というのもかなりあった(笑)。デザイン部の上司も、あまりによくあることなので、相談しても笑っているだけ。でも、そうやって強靭なプレゼン力と交渉能力が入社してほんの1年で身につくのである。とある夜、担当設計者が、竹刀を担いで僕のブースにやってきた時は、「ついにやられる!」と思って心と身体の準備をしたのだが、ただ、この後剣道の稽古があるだけだったという思い出もある(笑)。

●超絶美女たちの会社

出勤時間に品川駅か五反田駅で見かけた超絶美女はほとんどの確率でソニー社員であることが多かった。会社のランチタイムの社員食堂で「あ! あの人がいる!」というのも日常的にあった。そして気が付くとその人が自分の仕事の担当になっていたということも何度かあった。こういう感覚は続くと麻痺してくる。そういうのが普通と思えてくるから困ったものだ。

当時は、ソニーが学生の人気企業の上位で就職倍率が非常に高かったこともあって、男女ともにそんな感じの人たちばかりであった。とにかく華やかな空気があった。社内恋愛もかなりオープンであったし、社内結婚率もすさまじく高かった。盛田さんの社員の子供たちへのランドセル贈呈式というのもあって、まさにソニーファミリーであった。

仕事と並行して、遊びのやり方も半端なかったと思う。冬の金曜日の夕方には本社前の駐車場にスキーバスが続々と集まってくる。たくさんの社員が、金曜日はスキーやボードを抱えて出勤してくるのだ(笑)。夏はそれが、テニスラケットに切り替わる。仕事と遊びを両輪でこなすことは人間の魅力として極めて大事な要素だと思う。そういう人間が集まることで活気が発生し、その場に異分子が融合する化学変化が起きる。でもそれには人一倍の気力と強靭な体力が不可欠なのである。

エネルギーって使わないとどんどん退化していくものだと今でも思っている。1日を最大限動いて、最後に死んだように深く眠ればいい。翌朝には今度は110%の完全充電がされるのだ。

ソニーに関しては、やっぱりまだまだ書ききれません。また、機会のある時に書きますね。


2020年7月1日更新




▲デザインセンターでの打ち合わせ風景。右が大賀社長、左から2番目が筆者。
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▲筆者がデザインして当時のヒット作となったAMステレオラジオ「SRF-M100」。(クリックで拡大)



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