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コラム

澄川伸一の「デザイン道場」

その21:恐怖心という魔物

澄川伸一さんの新連載コラム「デザイン道場」では、
プロダクトデザイナー澄川さんが日々思うこと、感じたこと、見たことを語っていただきます。

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[プロフィール]
澄川伸一(SHINICHI SUMIKAWA):プロダクトデザイナー。大阪芸術大学教授。ソニーデザインセンター、ソニーアメリカデザインセンター勤務後に独立。1992年より澄川伸一デザイン事務所代表、現在に至る。3D CADと3Dプリンタをフル活用した有機的機能的曲面設計を得意とする。2016年はリオオリンピック公式卓球台をデザインし、世界中で話題となる。医療機器から子供の遊具、伝統工芸品まで幅広い経験値がある。グッドデザイン賞審査員を13年間歴任。2018年ドイツIF賞など受賞歴多数。現在のメインの趣味は長距離走(フルマラソン3時間21分、富士登山競争4時間27分)。



僕は仏像が大好きで、時間が許す限り、今までいろんな仏像を眺めてきた。どの仏像も共通して言えるのは、「平常心」というか、少し目を閉じた非常に落ち着いた安心感のようなその表情である。「大変な状況だけれども、とにかく大丈夫だから落ち着きなさい」と説いているように僕は感じる。

お寺の入り口には仁王像のような邪気を威嚇するものはあるが、一歩結界の内側に入り込めばそこは平穏な空間がデザインされている。おそらく古代から、人々は疫病、飢饉、津波や地震などの不可抗力の災害に直面してきていて、その時の心のよりどころとして「平常心」の重要性が求められてきて、その痕跡が現存する仏像なのだろうと感じる。お寺の仏像はメンタルの救済施設の核なのである。

飛鳥時代の人々を安心させてきた表情で、現代人も同じく癒されているのである。僕の知る限り、仏像の表情は、結界の外側に立つ邪気を追い払う「威嚇する怖い像」と、本殿に鎮座する「穏やかな平常心」の像の2種類しか存在しない。悲しみの表情の仏像というのはいまだかつて見たことがないし、仮に存在したとしても、それをわざわざ観に行きたくはない。

西洋絵画の中では、特に宗教画では悲しみの描写が圧倒的に多いのであるが、これは根底にある、アジアと欧州の決定的な精神面での文化の違いなのだろうといつも感じる。また、仏像ではないけれども日本には満面の笑顔の七福神の大黒様みたいな存在もあって、これはこれで非常に有効なキャラクターである。計らずも、au PAYのCMではないけれども笑顔の神様というのは時代を超えて幸福感を共有できるような存在で、今皆が必要としているモチーフだと感じる。ブラウンのデザイナーであるディーター・ラムスの自邸に、大国様の小さな石造が置いてあるのはなんだか嬉しい。

●恐怖心こそが危険

前書きが長くなったが、今月は「恐怖心」というものがいかに危険かということを伝えたい。

自分はおそらく、死にかけた体験が普通の人よりかなり多い。病気とかではなく、やんちゃなことをし過ぎてきたのが要因なのであるが。ほとんどが、20代前半に集中している。

スキューバダイビングで、サメに追いかけられたり、真っ暗な洞窟ダイビングの中間地点でエアゼロになったり、山を走っていて滑落して、足首逆になった派手な骨折をしたり、バックパッカーでグアテマラのゲリラ部隊に軟禁されたり、マンハッタンの誰もいない地下鉄車両で下半身裸の男に追いかけられたり、エジプトのへき地で狂犬の群に包囲されて、じりじりとその輪が小さく迫ってきたりとか……まだまだある。

自業自得なのでしょうがないのだが、実はこれらのとんでもない経験が今の自分の生き方にそのまま表れている。それは「今」を大事に過ごさないと絶対に後悔するということ。明日はないかもしれない。なんの保証もない。でも今は確実に存在するということ。自粛であれば自粛を最大に充実させるということ。

「もうだめだ」という場数が増えてくると、ああ、また来たか。という感覚であまりビビらなくなってくる。むしろ、今回も本能的に冷静にならないとまずいという意識になる。

●沖に流されたときの判断

以前、サーフィンやダイビングで沖に流されたことが何度かある。いわゆるカレントというやつで、あっという間に岸が霞んで引きずり込まれるように沖に流される恐怖感はかなりのものである。その景色は今でもトラウマで、はっきり映像が浮かんでくる。サーフボードやBCジャケットのような浮き具があれば、まだ、ヘリで救助みたいな微かな希望も残ってはいるのだが、海パン1つの遊泳で流されたらその恐怖感は半端なく倍増する。

実際、海水浴場で流された遊泳者をサーフィン中に救助したことがある。ものすごく感謝された。そのシーンは網膜に今でも焼き付いている。記憶って、どんな記憶でも実はきちんと収納されていて、生きていくために重要なものが脳の手前側に配列されているような気がする。忘れるって、単純にメモリーオーバーを避けるための自己防衛であって、本当はどんな記憶でも引き出しのどこかには収納されているような気がする。

海で沖に流された場合、一番大事なのは、焦ってそのまま岸に向かって垂直に泳いではいけないという鉄壁の決まり。人間の泳力よりもはるかにカレントの力は強いのだ。いくら全力で泳いでも、その泳力には到底かなわない速度のベルトコンベアーの上でもがいているようなものだ。

これに気が付いた時の絶望感は破壊的なダメージをメンタルに食らう。体力が尽きたタイミングで海水を飲み込んでむせ返ったりしたら、それで精神的に止めを刺されて溺れて終わるだろう。

自分自身が流されたと気が付いた時点で、ここで冷静に判断すべきは、自分の残存エネルギーの量確保の問題。まずは、流れに逆らわずに、流れを利用して、左右どちらかに少しづつ移動していくことなのだ。流された経験のある人なら誰もが知っていることだが、沖に引っ張り込む場所があれば、必ず岸に戻そうとする場所が存在するという物理的な話。昔懐かしい「ウルトラQ」のオープニング動画のような感じである。この世界では、プラスがあれば必ずマイナスが存在するのである。流れに逆らわずに、ほんの少しづつでも横に移動していれば、かなりの確率で岸に戻る流れのポイントに到達できる。そこで来る波に残りの体力で乗っかれば一気に岸に戻れるのだ。

●「今」は確実に存在する

現在、世の中は相変わらず大変だが、これはもうなるようにしかならないのだ。でも、流れに逆らってはいけないのである。なるようにしかならない確率論なのであるから。守るべきことは守ったうえでの確率論なのである。不安に感じても、その確率には影響がないどころが、免疫力を下げて感染確率アップになるだけだ。

スーパーの行列で感染する危険性は極めて高い、いまだに営業しているパチンコ店はもう問題外だろう。ワイドショーや不安をあおる記事の見過ぎで必要以上に心配するのも危険だ。ただ、メディアはもっと悲惨な医療崩壊の現実をきちんと伝える責任があると思う。まだ、意識的には甘いのだろう。でも、一度見れば十分だ、繰り返し見る必要はない。スーパーや商店街に殺到している高齢者を見るたびに複雑な心境になってしまう。体力、気力を消耗するのが一番危険だと思う。

よく言われる話で、患者が自分の病気の日記とかを付けると逆に悪化してしまうということがある。自分でも、「あれ、最近風邪ひいていないなあ」と気が付いたとたんに、風邪をひきかけてしまうという現象がある。自分の意識下にできるだけ、マイナス感覚を入り込ませないようにコントロールをするのは大事なことだと思う。オカルト映画もやめたほうがい。自己コントロールしないと。

生きているということは、いつかは必ず死ぬということでもある。それには誰一人例外はない。よく、お寿司とかで自分の一番好きなものを最初に食べるか最後に食べるかで意見が分かれるが、僕はいろんな経験が重なるほど、好きなものは最初に食べることにしている。何故なら、例え1分先の未来でも不確定だけれども、「今」は確実に存在するからなのである。

今まで通りに世の中が戻るとは思えない。でも、楽しい日常は必ず戻る。それまで、不要な恐怖心はマイナスでしかない。まずは生き残ること。

 
2020年5月1日更新



▲西往寺「宝誌和尚像」。
新しい時代の瞬間を感じさせる仏像。京都国立博物館公式サイトより引用。(クリックでリンク)



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