●毎日、練習を続けるために
特定のスポーツや、楽器の演奏とかの経験者であれば、誰もが「練習を休む」という言葉にドキリとするはずである。僕自身、いまだに、中学生時代の部活の練習を1日休むという時の恐怖感のようなものがトラウマのように記憶に残ってしまっている。
現在、自分にとって毎日の練習が不可欠なのがランニングとドラムなのであるが、どうしても気分的に練習したくなくなる時がある。軽い風邪くらいだったら、むしろ少しは練習で気分転換したほうがすっきりするのであるが、メンタル的な部分で練習に取り掛かりたくない場合が深刻な問題なのである。
今のドラムの先生も、楽器の演奏は、才能ではなく、本番までの練習の延べ時間の蓄積でしかないといっているし、いろんな本を読んでも、才能よりも練習ということが書かれているのでこれは信じたほうが良さそう。
もちろん、練習内容が間違っているとは本末転倒なので、そこはきちんと確認したい。とにかくの最短距離は、自分自身の毎日の練習をこなしていくことでしかない。今回、一般論として、毎日の練習を続けるアイデアを紹介してみたい。仕事や趣味にも必ず役に立つと思われる。
●全体を三分割してみる
フルマラソンのレースの考え方で、単純に前半と後半で分割するというのがある。これは、42.195キロの半分の21キロのハーフマラソンという競技がポピュラーであるという理由でもあるのだが、正直フルマラソンの前半と後半はまったく違うスポーツくらいに身体にかかる負荷が違っている。経験値がないと、だいたい前半飛ばしすぎて、後半は歩く羽目になる。
そこで、レース自体を三分割して、それぞれがそれぞれの特性を持ったZONEとして考えて作戦を練るというのが三分割法。実は、これはすごく便利でいろんなところに応用できる。1時間という単位もちょうど20分ずつに綺麗に分けることができる。なぜか、時間の単位はほとんどが、12進法で三分割しやすいようにできているのも不思議である。
僕は毎日、60分のランニングがノルマなのだが、気分が乗らないときは、まず20分だけで今日は大丈夫だよという指令を出して、あえて軽いノリで走り出す。20分というのは長いようで短い。10分走って、折り返して戻ってくれば20分は簡単に到達する。その20分をこなせれば、さらにあと10分の延長で半分の30分に到達できるのだ。そして、半分の30分になれば、あと10分で40分に到達する。2/3である。そこからあと、たった5分で3/4の45分に到達できる。
そこまでくれば、結局60分は走れてしまうものなのである。なんでもそうだが、終わりが近いと、もう少しだけ頑張ってみようかなという気にもなるものだ。本当の限界値で頑張るのは、たまにでいいとは思うが、日常的に終了間際のあと少しを頑張る癖をつけておくとそれは何にでもでも頑張れる応用が利く。もちろん、仕事でも頑張れる。
●自分自身を騙す
もう1つの方法が、自分を騙すということ。物事は自転車と同じで、停止状態からの最初の動き出しに一番力がかかる。いったん動き始めてしまえばあとはゆっくり加速していけばいいだけの話だ。ではどうやって始動するかが最大のポイントなのであるが。
練習をさぼりたいときは、自動的にいろんな理由を人間は考え始める。何も結果を残せない人に限って、ダメな時の言い訳のバリエーションが豊富でびっくりする。しかも、条件反射的に多様な言い訳が出てくるからある意味素晴らしい(笑)。でも現実は、自分が思っているほど他人には関心がないのが事実である。周りを気にしすぎると無駄な時間と労力を費やすことになる。
さらなる上を狙っている人にとっては、練習ができなかった日は、どん底まで落ちて自己嫌悪になってしまうくらいのダメージがある。そこで、その始動をしやすくするヒントとして、自分自身を騙すという方法がある。負荷の高い練習をする日でも、自分自身にはいつも通りとうそをついて進めてしまうというという方法。普段練習している人であれば、いったん始めてしまえば何とかなるものなのだ。
僕自身、毎日、3分間のプランクをやっているのだが、たった3分であっても実はきついトレーニングで、1日の後半になればなるほどこのトレーニングを避けたくなってしまう。やらなかった理由を考え始めてしまうものだ、プランクに関して言えば、起床直後の寝ぼけて判断力のない時間を利用するのが一番いい。起床のアラームを止めるタイミングでそのままプランクに突入するのである。そのプランク姿勢のまま、とりあえずメールチェックとかFacebookでも眺めているとあっという間に3分は過ぎてしまう。逆に言えば、日常的にインターネットチェックがいかに無駄な時間を過ごしているかという気付きにもなる。
以上、時間の三分割と自分にウソをつくという方法で、ある程度は目標達成係数は上がると確信している。
「練習」は毎日続けることがとても大事だ。
しかし、デザインにとって「練習」というものはあるのだろうか? デザインは、毎日毎日を全力で考え実行していく積み重ねでしかないのではないだろうか。 実践の伴わない薄っぺらい日常だと、デザインそのものにも胡散臭い雰囲気が漂うような気がしている。人生の経験値はそのままデザインにも反映されると信じている。
武者修行である。NO PAIN NO GAIN.
2019年6月1日更新
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▲澄川氏が気力で仕上げた渾身の作品という中判デジタルカメラ「Mamiya ZD」(2005年発売)。2007年グッドデザイン賞受賞、ドイツミュンヘン機会博物館永久保存。中判デジタルとしては最初期の製品だが、いまだに評価は高い。(クリックで拡大)
▲「Mamiya ZD」の上部操作部。思わず手に取ってみたくなるフォルムだ。澄川氏は毎日の積み重ねの結果という。(クリックで拡大)
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