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コラム

秋田道夫のプロダクトデザイン温故知新 第5回

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人と資源の合衆国
アメリカデザイン(前半)


デザインの将来に向けて、過去から今に残っているものを探るのも悪くない。
このコラムではモノが大量生産されるようになった草創期から振り返り、
デザインとモノの変遷を捉え直していきたい。
過去には未来へ向けた種子がまだ隠されているかもしれない。


[
プロフィール]
秋田道夫:1953年大阪生まれ 1977年愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒業。
ケンウッド・ソニーを経て1988年に独立。フリーランスのプロダクトデザイナーとして現在に至る。
http://www.michioakita.jp/

※本コラムは雑誌「Product Design WORLD」(2005年ワークスコーポレーション刊)の連載から、
版元をはじめ関係各位の許諾を得て、pdweb用に再掲載しました。原則的に加筆・修正は行っていません。

●夢を実現させた街

わたしが初めてアメリカの地に降り立ったのは、1980年の秋でした。当時所属していた会社のはからいで2ヵ月ほどヨーロッパ、アメリカへの研修旅行をさせてもらった時のことでした。ドイツ、フランス、イタリア、デンマーク、スウェーデンと回って、最後にたどり着いたのがアメリカでした。

びっくりしたのは、スウェーデンから『数日後、そちらに到着しますが、手配の方よろしくお願いします』と電話を入れた時、受話器の向こうから聞こえてきた日本人エンジニアの声に混じってロックがガンガン流れてきたことです。当時はインターネットもない時代ですから、スウェーデンにいた時には日本語に触れることもなく静かな町中とあいまって無音に近い生活をしていたので、そのロックがまさに自分の中を覚醒させるものでした。

イタリアの20世紀初頭を飾った「未来派」という芸術運動に参加した若き建築家アントニオ・サンテリア(Antonio Sant'Elia、1888~1916年)は、「未来の建築」について画期的なスケッチを残しました。ニューヨークのマンハッタン島から対岸のニュージャージーにつながる橋には大きなバスターミナルがあるのですが、その建築物がサンテリアの残した「未来都市」のスケッチの1枚とそっくりであることを知ったのは、だいぶ後になってからでした。

ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van derRohe、1886~1969年)が描いた高層ビル
も実現されたのはアメリカ。有名な「Pan Am」ビルの設計もバウハウスの創設者ヴァルター・グロピウス(Watler Gropius、1883~1969年)。降り立ったケネディ空港にあるターミナルビルの設計は、フィンランド出身のエーロ・サーリネン(Eero Saarinen、1910~1961年)でした。

そう「ブロードウェイ・ブギウギ」という抽象画を描いたのも、オランダ出身の芸術家モンドリアン(Piet Mondrian、1872~1944)でした。

今回と次回に分けてアメリカデザインを取り上げるに当たって、今回は1930~1980年のパソコン登場前夜までをお話しようとしているのですが、アメリカの「プロダクトデザイン」にスポットライトを当てて抜き出そうとすると、わたしはちっとも「具体的なデザイン」を思い描けないことに気がついて愕然としました。

あんなに世界の中心で輝いていて大量のモノが生み出されたのに。微々たる存在であろうドイツのバウハウスやイタリアのモダンデザインについては苦もなくリストアップできるのに。

それでも、やっぱり「最重要」な国であることには変わりがないのです。特に日本においては、その「愛情と憎しみ」交じりの感情を描かなくては、大切なものが抜け落ちてしまうのです。アメリカのデザインにまつわる状況を知れば知るほど、戦後日本がいかにかの国を下敷きにでき上がってきたかがわかってもらえると思います。

   


●消費は美学

アメリカにプロダクトデザインが誕生したのはいつなんでしょうか。自動車産業の発達のきっかけを作ったT型フォードが発売されたのが1908年でした。1,500万台という途方もない台数が「1つのデザイン」で販売されました。隣近所みんな「同じクルマ」だったわけです。なんだか気持ちが悪いですね。さすがに1920年代後半に「モデルチェンジ」をしたわけですが、そこが「アメリカプロダクトデザイン」の誕生ではなかったかと考えています。

クライスラービルがウォール街に建設されたのが1930年。翌年にはエンパイア・ステートビル(なにせ帝国という名前ですから)ができました。ちなみにウォール街から起きた世界恐慌は1929年の10月でした。その恐慌が続く1930年代に2人のスーパーマン・デザイナーが登場します(ちなみにアメリカンコミック『スーパーマン』が誕生したのは1938年)。1人はフランス出身のレイモンド・ローウイ(Raymond Loewy、1893~1986年)、もう1人はノーマン・ベル・ゲッディス(Norman Bel Geddes、1893~1958年)です。

ローウイは日本ではたばこの「ピース」のデザインで有名ですが、『口紅から機関車まで』という有名な著書をそのまま地でいく「なんでも」手掛けた人です。彼のデザイナーとしてのセンスについてはわたしは懐疑的で、「ビジネスに長けていた」というのが本当ではないかと思っています。

彼が得意にしていたのは「リ・デザイン」です。つまり原形があってそれをデザインし直すことによって「わたしがデザインするとこんなにも良くなった。そして売れるようになった」とアピールするわけです。

プロダクトデザイナーをやや「冷ややかに」言い表わす言葉に、「パッケージデザイナー」「コスメティックデザイナー」という表現があります。それは本来のパッケージや化粧品のデザインを言ったものではなく「外観だけ体よく変えるデザイン」という意味で、およそエンジニアリングも哲学も感じられないと言っているわけですが、そういう「揶揄」を生んだ張本人がレイモンド・ローウイなのかもしれません。なにせ「3日でデザインした」なんていうことを吹聴していたそうですから。

とはいうものの、1934年に彼のデザインした流線形の鉛筆削りやペンシルバニア鉄道の機関車や自動車のスチュードべーカー、そしてシェル石油のシンボルマークなど「名品」も残しています(不二家のシンボルマークも彼の手によるもの)。

ゲッディスも機関車や大型客船のデザインを1920年代後半から手掛けていますが、最大の功績はなんといっても1939年に開催されたニューヨーク万国博覧会での「フューツラマ(未来の俯瞰図)」と名付けられた巨大な未来都市の模型でした。この展示会の様子を映した映画を見ましたが、そのジオラマの完成度と巨大さは度胆を抜くものでした。小さな自動車が動くその姿はまさしく50年後を予見したといえるでしょう。その万博ではテレビが世界で最初に登場しましたし、ロボットも動いていました。ドイツではナチスが台頭し不穏な空気が世界を被う中、アメリカは確実に「大戦後」を見据えていました。


 

 

 

●人材と新素材

不幸な世界大戦でしたが、アメリカにとっては国が飛躍するきっかけとなりました。ドイツをはじめヨーロッパの多くの国から、優秀な芸術家やデザイナーをアメリカに集めることになったからです。先に述べたバウハウスからアメリカに渡った教授には、アメリカのデザイン教育の重要なキーパーソンとなったモホリ・ナギ(Laszlo Moholy-Nagy、1895~1946年)や、ハーバート・バイヤー(Herbert Bayer、1900~1985年)もいました。

そういった人的資源の流入とともに莫大な費用をかけた戦争兵器の開発は、同時に多くの新素材を生むことになりました。戦闘機に使われたジェラルミンは軽量で強度の高い金属であり、ゼロハリバートンというスーツケースで今も活躍しています。またFRP(プラスティックにガラス繊維を混合させた樹脂)も戦争中生み出されたものです。

その新素材FRPを使った椅子をデザインして戦後登場したのがチャールズ・イームズ(Charles Eames、1907~1978年)でした。イームズが積層合板(薄くスライスした木を重ねたもので強度が高い)を使った椅子を、先のエーロ・サーリネン(Eero Saarinen)とデザインしたのは1940年、ニューヨーク近代美術館が主催した住宅家具のコンペでした。

ここでニューヨーク近代美術館MoMAについてちょっと触れておきますが、設立は恐慌がはじまったのと同じ1929年。美術館ですから本来は近代や現代の美術品を収集していたのですが、「機械美術展」「バウハウス展」「インターナショナル(国際)建築展」などプロダクトデザインや建築を「アート」として世界でもっとも早く取り上げたことが注目されます。現在でもプロダクト製品のコレクションを積極的に押し進めています。「ニューヨーク近代美術館永久収蔵(パーマネントコレクション)」というのは、プロダクトデザイナー最大の名誉と言えるでしょう。

戦争中イームズは海軍で脚を負傷した兵士のための積層合板を使った添え木を15万個作り、新しい接着剤の研究などを押し進め、戦後それらのノウハウによって新しい家具を続々と生み出していきました。

「デザインは素材だ」と、あたかも寿司職人のようにわたしは思うわけです。

マルセル・ブロイアー(Marcel Lajos Breuer、1902~1981年)は鋼材でできたパイプ椅子をデザインし、マリオ・ベリーニ(Mario Bellini、1935年~)はゴムを使った計算機を生み出しました。プラスチックの発明によりデザインは画期的に進歩しました。材料なくしてデザインの進歩は語れないのです。

イームズは積層合板に引き続きFRPによる画期的な椅子を作りました。彼のデザインセンスについては「すごい」と思わないのですが、その素材へのチャレンジ精神においてはこれまで登場したデザイナーの誰よりも高いと思っています。量産性にすぐれ、安価で高い強度を持っていたイームズチェアは、現在でも世界中で大量に使われています。ここ数年「ミッドセンチュリーモダン」という呼び名でアメリカの1950~1960年について語られますが、間違いなくその中心にいたのはイームズであり、彼の当時の製品がいまだに容易に入手できることが人気を後支えしていると言えるでしょう。

以下次回に続く。

 

 

 

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▲イームズのデザインによる積層合板の椅子。イラスト:HAL_(クリックで拡大)


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