秋田道夫のプロダクトデザイン温故知新 第3回
黄金のコンパスが描いた美しい奇跡(軌跡)
イタリアンモダン(前半)
デザインの将来に向けて、過去から今に残っているものを探るのも悪くない。
このコラムではモノが大量生産されるようになった草創期から振り返り、
デザインとモノの変遷を捉え直していきたい。
過去には未来へ向けた種子がまだ隠されているかもしれない。
[プロフィール]
秋田道夫:1953年大阪生まれ 1977年愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒業。
ケンウッド・ソニーを経て1988年に独立。フリーランスのプロダクトデザイナーとして現在に至る。
http://www.michioakita.jp/
※本コラムは雑誌「Product Design WORLD」(2005年ワークスコーポレーション刊)の連載から、
版元をはじめ関係各位の許諾を得て、pdweb用に再掲載しました。原則的に加筆・修正は行っていません。
●ドイツのデザイン、イタリアのデザイン
わたしがこれからお話するのは、1950年代から1970年代という「イタリアンモダンデザイン」が最盛期を迎えていた頃のことです。
前回取り上げたドイツのバウハウスは、2つの世界大戦に挟まれた不安で不景気な社会状況が生んだ工業デザインの「新しい芽」のようなものでしたが、今回取り上げるイタリアンモダンデザインは、その芽吹いたものが第2次世界大戦から数年経てドイツよりも南の地で一気に樹木となり、そこに一斉に花を咲かせ果実をたわわに実らせたようなものです。
百花繚乱、まさしく人もモノもすぐれたものが溢れていて、どこがどうつながってできているのか「俯瞰する」ことすら容易ではありません。その中からあえて、自分が大切に思うものを選んで、客観的な時間軸とともに感想をまとめていきたいと思います。
イタリアで「バウハウス」にあたるプロダクト系のデザイン教育をしていた学校を見いだすことは難しい。従来イタリアのデザイン教育の主人公はミラノ工科大学ということになっていて、ここを卒業した建築家が「プロダクトデザイナーを兼任する」と言われています。さりとて、ミラノ工科大学のプログラムに格別プロダクトデザインを生み出す教育として特筆すべきものがあったという資料を見いだすことはないのです。
戦前のバウハウスの思想を受け継いだウルム造型大学(1966年閉鎖)の学長を同学校の閉鎖後に招聘(しょうへい)し、ミラノ工科大学に「工業デザイン学科」を新設したことを今回知りました。1950年代から1970年代に活躍したデザイナーの多くはこの「工業デザイン学科」が設立される前のミラノ工科大学の卒業生ということになるのですが、今まで積極的にドイツの合理主義的デザインをイタリアのデザイン界が「認めていた」というふうに考えていなかったので、ちゃんとリスペクト(尊敬)を示していた事実を知ったのは大きな収穫です。ドイツは整然とした「合理的な美」であり色調はモノトーン、イタリアは感覚を優先した「エモーショナル(情緒的)な造型的な美」で色調はカラフル、まったく相容れないような性質を持っていると漠然と認識されていた2つの国ですが、わたし個人は、その「特徴」の明確な線引きができずにいたので、その迷いは実は「的を射ていた」と思えてきました。
ここに「2つの国」を経験した1人の偉大なデザイナーがいます。名前はリチャード・サパー(Richard Sapper、1932年~)。彼はドイツ・ミュンヘンで生まれ、ミュンヘン大学で経済やエンジニアリング、そして哲学を勉強したのち、メルセデス・ベンツに入社。しかし2年後に退社し、イタリアの建築家ジオ・ポンティ(GioPonti、1891~1979年)の下で働いて、そののちマルコ・ザヌーソ(Marco Zanuso、1916~2001年)と共同で仕事をしました。
その時2人が生み出したデザインは後世に大きな影響を残しています。近年ではIBMのデザインコンサルティングが有名ですが、この「2つの国のアイデンティティー」を持つデザイナーの仕事は、イタリア的でもありドイツ的でもあります。そして、両国のデザイン的特徴を言い表わすことが簡単ではないことを物語ってくれます。 |
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