pdweb
無題ドキュメント スペシャル
インタビュー
コラム
レビュー
事例
テクニック
ニュース

無題ドキュメント データ/リンク
編集後記
お問い合わせ

旧pdweb

ProCameraman.jp

ご利用について
広告掲載のご案内
プライバシーについて
会社概要
コラム

建築デザインの素 第9回
建築は誰のものか?

「建築デザインの素(もと)」では、建築家の山梨知彦さんに、建築にまつわるいろいろな話を毎月語っていただきます。立体デザインの観点ではプロダクトも建築もシームレス。“超巨大プロダクト”目線で読んでいただくのも面白いかと思います。

[プロフィール]
山梨知彦(やまなし ともひこ)。1984年東京芸術大学建築科卒業。1986年東京大学大学院修了。日建設計に入社。現在、執行役員、設計部門代表。代表作に「ルネ青山ビル」「神保町シアタービル」「乃村工藝社」「木材会館」「ホキ美術館」「ソニーシティ大崎」ほか。 受賞「日本建築大賞(ホキ美術館)」「日本建築学会作品賞(ソニーシティ大崎)」他。 書籍「業界が一変する・BIM建設革命」「プロ建築家になる勉強法」他。


■ややこしい時代

「建築はだれのものか?」としばしば考えてしまう。

「当然、クライアントのものでしょ?」って思われるかもしれないが、建築が都市や町といった社会の中に建てられ、必ずそこに何かの影響を与えると同時に恩恵は受けている以上、もはや建築は単独では成り立たないことは分かりきったことだ。いかなる建築も社会的なつながりを必要としている。言い換えれば、現代では建築は社会の中で共有される「みんなのもの」となることで、存在しているのだ。

だから現代社会では、他人が所有する建築に対して「景観を阻害している!」などと非難することが許される。個々の建築はクライアントのものであるかもしれないが、個々では存在することができず、建築が集まった瞬間に、町並みや景観としてクライアントの手を離れみんなのものになるという、ややこしい状態になる。僕ら建築家も個々の建築のデザインの著作権を主張するものの、都市の景観の中で漂う建築にどこからどこまでが個々の建築家がデザインした範囲なのかもあいまいとなり、実にややこしいことになっている。

そんなわけだから、所有権などの個々の権利を超えて、建築をみんなが共有する状態に即してデザインすることは、僕らこの時代の建築家が担わねばならない課題だってことになる。。

■建築は俺のもの

でも実際の現場では、建築はみんなのものとして共有されるよりも、「俺のものだ」といわんばかりに権利が主張され、ぶつかり合うのが常だ。

クライアントは当然のことながら、「金を出しているのは俺だ!」と建築の所有者であることを主張する。でも公共建築では、市民団体が「税金を払っているのは我々だから、この建築は我々のものだ! 我々は高額なもの、メンテナンスコストがかかるものを望んではいない」と相異なる主張をする。公共建築でなくとも、「景観は我々のものだ!」と主張する。一方で建築家といえば、「デザインは俺のものだ!」と主張をする。

おそらくかつては、コミュニティといった地縁的なシステムがあり、そのコミュニティに即したスケールの建築を造る限り、「俺のもの」を「みんなのもの」へと変換し、共有することを容易にしていたのではなかろうか。

ところがコミュニティ自体を欠き、建物のスケールがコミュニティのスケールを超えるような現代の状況の中では、関係者のだれもが「これは俺の建築だ!」と主張することはあっても、「これはあなたの建築ですよ!」と譲り合うことはまずない。さらに、それぞれが目標とする建築の方向自体が異なるわけだから、一つの建築にまとめるのは至難の業だ。今日の、大型建築や公共建築の建設に関わる典型的な関係者の対立の図式は、こうして生まれるのだろう。

■建築はみんなのもの

たとえ住宅のような個人が建設した建築であっても、それが広く社会に共有され、建築はみんなのものとして認識され、共有されること。これが成熟した社会における建築の1つの理想であろう。

住宅のような私的な建築であっても、建て主は町並みに配慮し、迎える側の市民も景観の中にそれを寛大に受け止め、建築家も作品としての価値を持たせつつも建築としての機能性や安全性を損なわない提案を行い、だれもが控えめに「この建築はみんなのもので、関係者の誰一人を欠いても完成することはなかった」という意識を共有できる状態。クライアントは完成した建物の軒を通りかかりの人に差出し、市民は軒を借りつつその建築を愛し、建築家はそういったプロジェクトに関われたことに誇りを感じられるような状況。そしてコミュニティに代わる共有のためのシステムが必要とされている。建築家として、常々こんなふうに「譲り合い」の精神が満ち溢れた状態で共有されることを願い、共有のためのシステムを創造することを夢見るわけだが、現実はそう甘くない。「俺のものだ!」という、「権利の主張」が先行するのが世の常だが、やがてクライアントの、市民の、そして建築家のリテラシーが向上し、「建築はみんなのもの」となり共有される日が来ることだろう。(笑)

建設されてもいないにもかかわらず今年一番話題になった建築である「新国立競技場」を取り巻く議論を見ても、そこには互いに権利を互いに主張するクライアントと市民と団体と、俺の案を造らせろという建築家の、「建築は俺のもの!」と互いに主張するバトルだけしか見えてこなかった気がする。そろそろ「建築はみんなのもの」として建設的に互いが譲歩し、共有し合う成熟した都市東京が必要としている議論へ移行してほしい気もするのだが。

イラスト
▲写真1:京都の伝統的な町並み:コミュニティにより統一感のある景観が生まれ、古典的な「建築はみんなのもの」が生まれている。(クリックで拡大)

イラスト
▲写真2:京都駅から見た京都の町並み:没個性でつまらない建築が、「建築は俺のもの!」を主張し、景観がスポイルされている。(クリックで拡大)

イラスト
▲写真3:ポルトの歴史地区の町並み:個々の建築が個性的な「建築は俺のもの!」を主張しつつも、全体の景観の中には「建築はみんなのもの」が生まれていそうな町並み。コミュニティによらないこうした協調と共有を生み出すことが今日的な建築デザインのテーマかもしれない。(クリックで拡大)

イラスト
▲写真4:上海浦東地区の町並み:個性的な建築が「建築は俺のもの!」を主張して立ち並ぶ景観。エキサイティングともいえるが、コミュニティに代わる共有のシステムも見られず、ただ立ち並ぶだけの様子はすでに前時代的にも感じられる。(クリックで拡大)


Copyright (c)2007 colors ltd. All rights reserved